誕生から1960年代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/19 19:12 UTC 版)
「ジョスコー線」の記事における「誕生から1960年代まで」の解説
第二次世界大戦後に鎮守府が廃止された後、1950年に旧軍港市転換法に基づく商港建設案が浮上したことに伴って貨物線ヤードに臨港旅客駅を設置し、従来の佐世保駅を貨物駅に転用する計画案が検討されたが、朝鮮戦争が勃発したために、線路は再び米軍に接収され、商港建設案もろとも旅客線化計画も白紙となった。 在日米軍は燃料貯油施設を佐世保基地に集約し、全国に散らばる米軍基地へ貨物列車によって燃料を供給する方針を固めた。このため、鎮守府貨物線をジョスコーまで延長し、貨物列車の直行を可能とするために延長敷設工事に着手、1950年7月5日より使用が開始された。 石油燃料を取り扱う施設のため蒸気機関車の運転は禁止されており、また入換作業を担当する国鉄早岐機関区には正規のディーゼル機関車は存在しなかったため旧海軍工廠より引き継いだDB1というディーゼル機関車を使用したが故障が多く、1957年3月、ジョスコー線専用にDD11形ディーゼル機関車8・9号機が新製配置された。他にDD11の配置は、横須賀軍港を担当する国府津機関区久里浜支区、千歳飛行場を担当する室蘭機関区、岩国飛行場を担当する広島第一機関区、板付飛行場を担当する吉塚機関区竹下支区と限定された。 以後、ジョスコー線は在日米軍の動脈として機能した。しかし1968年に佐世保港へ原子力空母エンタープライズが入港することが決まり、学生らの阻止行動が起きる危険性が高まると、基地への突入経路となるジョスコー線の運行は自粛された。また投石被害を未然に防ぐため、佐世保駅-平瀬橋間のバラストを撤去した。三派系全学連は県警の予想通りジョスコー線橋梁と平瀬橋からの突破を図ったが、県警は撃退に成功した。しかしジョスコー線の運行はこの闘争を境に激減する。
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