誕生〜学生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/02 22:02 UTC 版)
「高橋正弘 (サッカー指導者)」の記事における「誕生〜学生時代」の解説
高橋家の長男として誕生。喧嘩ばかりのやんちゃ坊主として育った。昭和初期、スポーツといえば野球が大人気であり、高橋も御多分にもれず小・中学校時代は野球に打ち込んでいた。 1959年(昭和34年)に北海道室蘭清水丘高等学校に進学後、中学時代の先輩から強引に誘われ、サッカー部に入部した。不本意な入部ではあったが、練習内容は、ドリブルしながら坂道を上り下りしたり、ボクシングのフットワークで敵をかわすなど、厳しいながらも部員を飽きさせないユニークなものが多かった。後に自身が監督となったとき、この体験が大いに役立ったという。このときの監督である金子芳昭のことを、後に高橋は「金子監督との出逢いがなければ、僕の人生はまったく変わっていた」と語っている。 同年の国民体育大会室蘭支部予選で、先輩の故障により1年生にして試合に起用されたが、決勝戦で当時の北海道内の有力校であった北海道美唄工業高等学校に大敗。2年生となった翌年はその美唄工を決勝戦で破って全国大会へ進出したが、全国では初戦で強豪校の徳島県立徳島商業高等学校に完敗、3年生での全国大会も後進が育たなかったことから、初戦で中京商業高等学校に完敗した。高橋は全国の厳しさを感じると共に、それ以上に北海道勢のサッカーのレベルの低さ、北海道にサッカーが根付いていないことを実感した。卒業の間際、サッカー部の監督に「高橋は監督に向いている。大学でもサッカーを続けて、北海道のサッカー指導者として後進を育んでほしい」と言われ、この言葉がその後人生を決定づけることとなった。 1962年(昭和37年)に高校を卒業し、国士舘大学に進学。サッカーを続けて技術を磨くと共に、高校、大学、社会人、日本サッカーリーグと、ありとあらゆるサッカーの試合を観戦し、サッカー指導者としての下準備の日々を送った。このとき高橋が参考とした現役選手には、釜本邦茂、加茂周、川淵三郎らがいる。試合観戦をもとに「どんな連係プレーから打ったシュートが一番決まるか」を卒業論文としてまとめ、後に監督になってからもこれを利用した。また教育実習で、できたばかりのサッカー同好会を一から指導し、生徒たちと共に汗を流し、監督としての自信をつけるに至った。
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