宗教者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 05:09 UTC 版)
1905年(明治38年)、真宗大谷派の僧侶伊藤証信によって、無我愛運動が提唱された。この運動に対しては、綱島梁川や徳冨蘆花らの文化人のほか、堺利彦や石川三四郎といった社会主義者からも反響が寄せられたが、特に内山は、伊藤の無我苑への入苑を一時は真剣に考えたほど、この運動に傾倒している。無我苑の機関紙『無我の愛』には、内山から伊藤に宛てられた書翰がいくつか掲載されており、また無我苑閉苑後に伊藤に宛てられた書翰も、複数確認されている。内山が伊藤の無我苑に倣って、「修道苑」を建設する計画を立てていたことも明らかになっている。 また、1906年(明治39年)5月、田中正造らとともに谷中村問題に携わっていた石川三四郎は、問題に携わる中で生じた煩悶を鎮めるため、内山の林泉寺を訪れ坐禅を組んでいる。その結果、石川は、「十字架は生まれながら人間の負うたものだ」との回心に至った。 林泉寺の住職としては、檀家に対して、葬祭仏事に参加するだけではなく、曹洞宗の教えに触れて処世に生かすよう求める覚書(1906年2月1日付)を提出している。また、寺院株を批判する上書(1904年5月30日・同31日付)を、近隣寺院に書き送っている 。
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