ファリサイ派とサドカイ派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/18 05:17 UTC 版)
「ヨハネ・ヒルカノス1世」の記事における「ファリサイ派とサドカイ派」の解説
研究者たちは外典の1つ『ヨベル書』がヒルカノスの治世に記されたとみている(さらにある学者たちはヒルカノスの意図があったとさえする)。『マカバイ記』第一も、ヒルカノスの父シモンの治世までを記しており、ヒルカノス以降の時代に記されたと思われる。 また、(それ以前に分かれていたという意見もあるが)学者たちのあるものはユダヤ教がファリサイ派とサドカイ派という相対する二つのグループに分かれたのがこの時代であると考える。つまり、この時代に、エルサレム神殿による祭司たちから構成されて権力側に密着したサドカイ派と、民衆の中にあって宗教者としての指導力を発揮しながらも政治的指導者とは距離をとったファリサイ派という構造が出来たと考えるのである。一般的にはヒルカノスはサドカイ派と接近することで自らの権力基盤を強化したと考えられているが、ヒルカノス自身がサドカイ派に属していたという説もある。 ヨセフスの記述によれば、ヒルカノスは当初ファリサイ派を支援していたが、祝宴の席でファリサイ派のエレアザルがヒルカノスの出生を中傷したことで激怒した。更にサドカイ派のヨナタンはファリサイ派全体が悪意を抱いていると吹き込んだため、ヒルカノスはファリサイ派に敵対し、彼らの律法諸規定を撤廃・弾圧した。ハスモン朝とファリサイ派の対立は激化し、サロメ・アレクサンドラが和解するまで続く。
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