北京司教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:28 UTC 版)
1979年、中国の宗教政策は緩められ、宣武門天主堂は全国で真っ先に開放された。傅鉄山は(自選自聖)により、北京教区司教に推薦された。この時、司教職には既に15年もの空きがあった。12月21日(使徒聖トマスの祝日)に聖別を受け、司式者は湖南カトリック常徳教区司教楊高堅であった。補式者は愛国会の上海教区司教張家樹と内蒙古自治区フワフト教区司教王学明であった。そして1979年から、傅鉄山は愛国的な宗教指導者となり、多くの公的または半ば公的な指導的職務についた。だが、この司教の任命は未だに教皇庁の同意を得ていない。 1979年から1992年にかけて、カトリック北京教区司教、全国政協委員、常委、北京市政協常務委員、中国国際交流協会副会長、中国障害者福利基金会理事、中国天主教愛国会副主席を務めた。その立場の為に、1986年のドイツのデア・シュピーゲルのインタビューでは「中国カトリックの最高の権威はバチカンにあるかそれとも中南海か」と聞かれるほどであった。そして、彼は原則として独身を守るカトリックの聖職者でありながら結婚していたとされている。 1989年の六四天安門事件が起こった時、その僅か数日後に、彼はテレビで鄧小平の天安門広場の学生への武力行使を宗教者として唯一人支持を表明した。 1992年から1998年にかけて、全国人民代表大会委員、教育科学文化衛生委員会委員、中国天主教愛国会副主席、中国天主教主教団副主席兼秘書長、北京市天主教愛国会主席、教務委員会主任、北京教区司教、中華海外聯誼会常務理事、中国国際交流協会副会長、北京市人民対外友好協会副会長を務めた。
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