北京大学学長
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1982年、丁は学部長を辞任し、ハーバード大学に客員研究員として在籍した。丁がアメリカにいる間、北京大学では1983年に上級教授陣の間で次期学長を選出する投票を行い、丁が最多得票を得た。 1984年3月、丁は57歳で北京大学学長(英語版)に任命された。丁は授業、特に基礎課程の授業を実施した教員に報奨する方針を実施し、授業をしなかった教員のボーナスを差し控え、授業もせず重要な研究もしていない教員は解雇した 。学長となってからも、丁は高等代数学の基礎課程の授業を行った。 『炎黄春秋』によれば、毛沢東の孫の毛新宇が1988年に高校を卒業したとき、母親の邵華は息子を北京大学に入学させようとした。丁は、自由主義志向の学生の間で毛新宇の安全を保証できないとして、邵華の要求を拒否した。結局、毛新宇は中国人民大学に入学した。 在任中、丁は「民主主義と科学」の精神を促進したが、丁の改革のいくつかは政府によって妨害された。1988年、丁は辞表を国家教育委員会主任(教育大臣)李鉄映に提出したが、李はそれを認めなかった。1989年の天安門事件では、北京大学の学生が主導的な役割を果たし、丁は抗議行動への参加を妨げなかった。1989年6月に中国政府が抗議行動を弾圧した後、丁は1989年8月に辞任を余儀なくされた。後任の学長には中国人民大学副学長の呉樹青が就任した。 中国中央電視台でのインタビューで、丁は学長としての任期は失敗だったとし、北京大学を自分が思い描いた理想的な大学に変えられなかったと語った。しかし、著名な学者である季羨林は、丁を、蔡元培とともに北京大学史上最高の学長であると述べた。
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