内山愚童とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 世界宗教用語 > 内山愚童の意味・解説 

うちやまぐどう 【内山愚童】


内山愚童

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 05:09 UTC 版)

内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年5月17日 - 1911年1月24日)は、日本仏教者・僧侶曹洞宗林泉寺住職)・社会主義運動家。幸徳事件大逆事件)で処刑された12名の1人。


注釈

  1. ^ 母や兄弟を残してまで出郷した理由は不明。
  2. ^ 仏門に入った直接の動機は不明。内山自身は、幸徳事件の公判において、「人類幸福主義ノ為、苦痛ヲ救済スルノ目的ニテ宗教ニ入ル」と述べている。また、内山が同年夏に修行を行った愛甲郡三田村の清源院の住職、青柳賢道が、内山の母方の叔父であったこと、青柳が坂詰の師であったことも関係していると思われる。
  3. ^ 一方、内山愚童第一回参考人調書によれば、修行中に見聞した僧伽の生活を実社会に実現させるという理想を抱いていたところ、『平民新聞』の主張がその理想と同じであったから社会主義に入ったと、内山は述べている。
  4. ^ 内山自身は、幸徳事件の公判において、檀家である資本家(挽物問屋)からの反発を招き、自身の生活にも関わるため、当地では何らの運動も行わなかったと述べている。石川の記事から、内山が当地で社会主義活動をしていたことは明白であるため、公判での発言は裁判戦術であった可能性がある。
  5. ^ 寺院の住職の交代に際し、前任から後任へ金銭を渡す習慣。
  6. ^ 内山が幸徳と初めて会ったのは、1905年(明治38年)8月13日のことである。このとき内山は、小田原の加藤時次郎のもとを訪れ、偶然居合わせた堺、幸徳とともに、禅について鼎談している。
  7. ^ 『無政府共産』の配布による不敬罪事件については、小股(2010)に詳しい
  8. ^ 内山愚童第一回予審参考人調書によれば、このダイナマイトは、前年11月に足尾銅山の鉱夫を林泉寺に泊めた際、その礼として鉱夫が置いていったものとされる。
  9. ^ 内山が以前より無断で寺を開けることが多かったため、檀家から住職罷免の手続きがとられたが、当地の有力者のとりなしにより、永平寺での夏安居に参加することで許されることとなった。
  10. ^ ただし、武田九平第六回調書によると、武田は、内山から皇太子云々に関する話は聞いていないと述べている。
  11. ^ 『帝国軍人座右之銘』および『道徳否認論』の出版による。この時点では、『無政府共産』の著者が内山であることは判明していない。
  12. ^ 大平台において、内山の所有品からダイナマイトや雷管が発見されたため。
  13. ^ 1908年11月3日の天長節の日、かねてより皇室に反感を持っていた宮下のもとに、『無政府共産』が無記名で届けられた。『無政府共産』に触発された宮下は、同月10日に大府駅に赴き、お召し列車を迎える群衆に『無政府共産』を配ろうとしたものの相手にされず、皇室を軽んじる念を強くさせた。
  14. ^ 大逆罪では三審制が適用されず、大審院での一審のみで刑罰が確定した。
  15. ^ 判決の翌19日、24名中12名が恩赦によって無期懲役に減刑された。
  16. ^ 内山に関しては、例えば中村(2009)は、幸徳事件の判決書や取り調べ記録により、内山の無罪を論じている。ただし、『無政府共産』の出版に関しては、皇室を軽んじる記述があるため、不敬罪に該当する可能性は高い。
  17. ^ 内山の処刑前日の1月23日、曹洞宗は宮内大臣に対して謝罪文を提出している。

出典

  1. ^ 吉田 1959, p. 438.
  2. ^ 森長 1984, pp. 58-59.
  3. ^ 「箱根大平台より」, 『平民新聞』第36号, 1904年7月10日.
  4. ^ 柏木 1979, p. 33.
  5. ^ 『平民新聞』第15号, 1904年2月21日.
  6. ^ 石川生(石川三四郎)「函根大平台小集」, 『平民新聞』第45号, 1904年9月18日.
  7. ^ 柏木 1979, p. 242.
  8. ^ 松尾 1984, p. 71.
  9. ^ 安藤 2004, p. 152.
  10. ^ 柏木 1986, pp. 59-60. 伊藤証信宛の、1905年11月13日付書翰。
  11. ^ 柏木 1979, p. 232.
  12. ^ 石川 1956, p. 111.
  13. ^ 柏木 1979, pp. 225-226.
  14. ^ 柏木 1979, pp. 227-228. 温泉村宮ノ下の常泉寺宛。
  15. ^ 早稲田大学社会科学研究所 1974, pp. 25-26. 石川三四郎宛の、1907年10月15日付書翰。
  16. ^ 内山愚童予審被告人調書.
  17. ^ 内山愚童予審被告人調書.
  18. ^ 内山愚童第一回予審被告人調書.
  19. ^ 内山愚童予審調書.
  20. ^ 今村公判ノート. 幸徳事件被告弁護人の今村力三郎による公判記録。
  21. ^ 内山愚童第七回参考人調書.
  22. ^ 平出修 1965, pp. 342-343. 幸徳事件被告弁護人平出修の「後に記す」による。
  23. ^ 宮下太吉第一回予審調書, 同第二十一回予審調書.
  24. ^ 今村公判ノート.
  25. ^ 池田 2010, p. 127.
  26. ^ 謀叛論(草稿)
  27. ^ 島田 1972, p. 299.
  28. ^ 内山愚童師に学ぶ - 曹洞宗宗務庁人権擁護推進本部
  29. ^ 興全寺所縁の内山愚童の再評価と宗門の対応
  30. ^ DVD「内山愚童師顕彰碑 除幕式」” (日本語). ib ショップ. 2020年12月25日閲覧。
  31. ^ 大逆事件で死刑の僧侶・愚童顕彰碑建立へ(読売新聞)


「内山愚童」の続きの解説一覧


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内山愚童」の関連用語

内山愚童のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内山愚童のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
中経出版中経出版
Copyright (C) 2024 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの内山愚童 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS