幸徳事件以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 05:09 UTC 版)
石川啄木は、内山の火葬の様子を伝えた新聞記事に衝撃を受け、その旨を自身の日記(1月25日条)に記している。 被告人が処刑された直後の1911年(明治44年)2月1日、徳冨蘆花は一高において、「謀叛論」と題して事件に対する政府の対応を批判する講演を行った。講演の草稿の中で、徳冨は内山に言及し、事件の始末に走る仏教教団を批判している。 社会主義者との関係があった田中正造は、被告人処刑の後、泰然として刑に臨んだ内山の宗教的鍛錬を称える発言を残している。 1993年(平成5年)4月13日、曹洞宗により内山の擯斥処分が取り消され、名誉回復がなされた。2005年(平成17年)、林泉寺で愚童忌が行われ、顕彰碑が建立された。また、2013年(平成25年)11月16日には、内山の故郷である小千谷に顕彰碑が建立された。
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