幸徳事件と『一握の砂』刊行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:14 UTC 版)
「石川啄木」の記事における「幸徳事件と『一握の砂』刊行」の解説
1910年4月、社会部長の渋川柳次郎から前月紙面に掲載した短歌を評価され、「出来るだけの便宜を与えるから、自己発展をやる手段を考えて来てくれ」という言葉をかけられる。これに発奮した啄木は歌集の刊行を企図し、同月255首をまとめて『仕事の後』のタイトルで春陽堂に持ち込んだが、稿料15円を要求したことで物別れに終わる。 5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆する。 6月3日に幸徳秋水が拘引されたという記事が各新聞に掲載され、5日には幸徳らの「陰謀事件」として多数の社会主義者・無政府主義者が検挙されたと報じられた(幸徳事件(大逆事件))。これらの報道では幸徳らの検挙容疑が明治天皇暗殺計画(旧刑法73条の「大逆罪」)であることは伏せられていたが、検挙者に対する各種令状(勾引状・勾留状など)には「刑法七十三条ノ罪被告事件」とあり、新聞社ではこの事実をつかんでいたとされることから、啄木は事件が大逆罪による検挙であるという認識を6月時点で持っていたと推測されている。啄木は幸徳事件に対して評論「所謂今度の事」を執筆し、東京朝日新聞外勤部長兼夜間編集主任の弓削田精一に掲載を依頼したが実現しなかった。8月下旬には魚住折蘆が東京朝日新聞文芸欄に掲載した評論「自己主張の思想としての自然主義」への反論として「時代閉塞の現状」を執筆するも、こちらも新聞掲載には至らなかった。啄木は社会主義に対する関心を深め、小樽時代に会った西川光二郎に再び接触し、紹介を受けた社会主義者の藤田四郎から社会主義文献を借りて読んだ。 9月15日、朝日新聞紙上に「朝日歌壇」が作られ、渋川の抜擢により選者となる。この抜擢には社内に反対もあったとされ、啄木自身も後に選歌の一部をまとめたノートに「歌人たること、歌壇の選者たることに予は不幸にしてどれだけの誇りをも発見することが出来ない」と記したが、投稿者には萩原朔太郎や矢代東村もいた。 啄木は妊娠・入院した節子の出産費用を得る目的で改めて歌集の刊行を企図し、東雲堂書店に再編した原稿を持ち込んで10月4日に出版契約を結ぶ。同じ日、長男真一が誕生した。啄木が持ち込んだ原稿ではタイトルは4月と同じ『仕事の後』で書式も一行書きだったが、10月9日までの間に作品の加除をおこなった上で三行分かち書きに改め、タイトルも『一握の砂』に変更した。この三行分かち書きは、土岐哀果のローマ字歌集『NAKIWARAI』にヒントを得たとされる。真一は27日に病死し、それを悼む歌8首を追加して12月1日に、第一歌集『一握の砂』が刊行された。 1911年(明治44年)1月3日、新詩社時代からの友人で幸徳事件の弁護を担当していた平出修を訪問して裁判の内容を聞くとともに、幸徳の陳弁書を借用し、5日にかけて筆写した。 1月10日、アメリカ合衆国で秘密出版され、日本国内に送付されたピョートル・クロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』(日本国内では大杉栄訳により刊行)を、歌人の谷静湖より寄贈され愛読する。同日、読売新聞に楠山正雄が「K生」の筆名で寄稿した「新年の雑誌」において啄木と哀果を取り上げ、「今のところ吾人の和歌に対する興味はこの二氏の作によって最も多く支配せられている」と評価した。2日後の1月12日、哀果は東京朝日新聞の啄木に電話をかけ、翌13日に二人は初めて面会する。この面会で啄木は哀果と意気投合し、二人で雑誌を出すことを決める。 1月18日の判決により、幸徳や管野スガらは死刑となる。啄木は「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」を24日にまとめ、26日には平出修の自宅で訴訟記録を閲読した。一方、土岐哀果との新雑誌創刊に向けて活動を始め、宮崎郁雨や平出修にもその意思を伝え、綿密な収支計画も立てた。雑誌の目的は青年の啓発で、誌名は啄木と哀果の筆名から一文字ずつを取った『樹木と果実』とした。 だが、その矢先の2月1日に体の不調から東京帝国大学医科大学附属病院を受診、慢性腹膜炎の診断を受けて2月4日に入院し、2月7日に手術、3月15日に退院した。この影響で「朝日歌壇」は2月28日で中止となった。また『樹木と果実』も、入院による延期ののち印刷所の問題で断念、形式変更での刊行も検討したものの「最初の目的を離れ」たことを理由に5月に中止した。 5月には幸徳の陳弁書を写したものに説明文を付した「'V NAROD' SEIES A LETTER FROM PRISON」を執筆し、被告の中にテロリストがいたことは事実だが幸徳ら他の被告はそれに該当せず、にもかかわらず政府と裁判官は無政府主義撲滅の意図を持ってそれに成功したと記した。
※この「幸徳事件と『一握の砂』刊行」の解説は、「石川啄木」の解説の一部です。
「幸徳事件と『一握の砂』刊行」を含む「石川啄木」の記事については、「石川啄木」の概要を参照ください。
- 幸徳事件と『一握の砂』刊行のページへのリンク