直接行動論への傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 05:09 UTC 版)
1907年(明治40年)から1908年(明治41年)にかけて、内山は幸徳秋水らが主張する直接行動論に傾倒する。当時の日本社会党は、運動理論をめぐって、議会政策派と直接行動派とに分裂していた。1907年10月、上京した内山は、両派の集会にそれぞれ参加し、当時は議会政策論を唱えていた片山潜に対して批判的な感想を抱いている。 1908年8月12日から同14日にかけて、赤旗事件の裁判傍聴のため郷里の土佐より上京してきた幸徳が、その途上、林泉寺を訪れている。このとき内山は、幸徳が翻訳したクロポトキンの『麺麭の略取』の原稿を一読している。同年9月30日、内山は上京し幸徳のもとを訪れ、幸徳に革命の方法を尋ねている。このとき幸徳は、洋書を繙きながら、革命の際に交通機関を破壊することなどの説明をしたとされる。 同年10月、内山は天皇の神聖を否定する内容を含むパンフレット『無政府共産』を秘密裏に印刷した。同月末、内山は平民社を訪れ、森近運平より提供された『大阪平民新聞』の読者名簿を頼りに、『無政府共産』を各地の同志に変名で発送した。しかし、『無政府共産』の送付を受けた者の多くは危険を感じて処分し、さらにこれを配布した者5人が不敬罪に問われている。また、同年11月には、『帝国軍人座右之銘』、『道徳否認論』といった秘密出版物も作成している。 1909年(明治42年)1月14日、平民社を訪ねた内山は、幸徳、森近らとの雑談の中で、「一場ノ談話」として、革命のために皇太子に危害を加えることを主張したとされる。翌15日には管野スガを訪ね、爆裂弾製造の研究用としてダイナマイトの提供を申し出ている。さらに翌16日には、横浜の社会主義団体である曙会を訪れ、革命実行の決意を糾したり、革命の方法として暴動や暗殺、“倅”(皇太子)を「遣つ付ける」ことなどを述べたとされる。ただし内山自身は、曙会で“倅”云々の話をしたことを否定している。 同年4月15日、内山は永平寺の夏安居に参加するため、林泉寺を発った。同17日、永平寺への途上、名古屋の社会主義者、石巻良夫のもとを訪れ、革命の決意を糾したり、“倅”の話をしたとされる。内山は翌18日に永平寺に入ったが、同年5月18日、健康を害したため永平寺を出た。このときより、警察の尾行がつくようになった。同21日、大阪において、『大阪平民新聞』の協力者である三浦安太郎、武田九平に会い、爆裂弾の研究や、皇太子暗殺について話したという。さらに翌22日には、神戸において、『平民新聞』の読書会である神戸平民倶楽部の会員、岡林寅松、小松丑治に会い、皇室を斃して革命を実行することを主張したとされる。しかし、平出修が指摘したように、警察の尾行がつく中でそのような重大な話が行われたとは疑わしく、皇太子暗殺の話などについては、検察側の捏造ないし拡大解釈であった可能性がある。 同年5月24日、内山は林泉寺へ帰る途上で逮捕され、同29日、出版法および爆発物取締罰則違反で起訴された。同年7月6日、林泉寺の住職を諭旨退職。1910年(明治43年)4月5日、出版法違反で禁錮2年、爆発物取締罰則で懲役5年の判決が下され、東京監獄で服役することとなった。同年6月21日、曹洞宗は内山を宗門擯斥(僧籍剥奪)に処している。
※この「直接行動論への傾倒」の解説は、「内山愚童」の解説の一部です。
「直接行動論への傾倒」を含む「内山愚童」の記事については、「内山愚童」の概要を参照ください。
- 直接行動論への傾倒のページへのリンク