逮捕・判決
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11月24日、山隅郷士上野清義宅へ立ち寄り、どぶろくを馳走になっている所を密告され逮捕された。 取り調べにあたり、今村は挙兵謀議はしていない、隊長は頼まれてやっただけ、人は殺していないと言い訳と責任回避に終始し、自分が率いた下級士族への憐憫もなく、豊津で相手に死傷があった事を知って満足などと述べている。 12月3日、福岡臨時裁判所で秋月挙兵国事犯に判決が出され、主犯の今村と益田静方は士族を除族され、死刑判決を受ける。同日福岡桝子屋町の獄を出され、斬首刑に処せられた。35歳。
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逮捕・判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 15:53 UTC 版)
明科事件を口実として、政府のフレームアップ(政治的でっち上げ)により、幸徳秋水をはじめとする多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、証拠不十分なまま1911年(明治44年)1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決。1月24日に11名、1月25日に管野の死刑が執行された。 死刑が執行された12名は秋水のほか、管野スガ、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童である。高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人は特赦無期刑で、無期懲役中に獄死した。一方で仮釈放された者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治の7人である。布施柑治によると、秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述した。この政治的弾圧事件が幸徳事件である。第二次世界大戦後、関係資料が発見され、暗殺計画に関与したとされていたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名だけであったことが判明した[要出典]。 判決の2ヶ月前の1910年(明治43年)11月22日にアメリカの無政府主義者、エマ・ゴールドマンらがニューヨークで抗議集会を開くなどの抗議運動を展開した。さらにイギリスやフランスでも無政府主義者による抗議運動が日本大使館前で行われた。 1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年(昭和42年)に「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。)。
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