逮捕・帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 15:07 UTC 版)
「マックス・クラウゼン」の記事における「逮捕・帰国」の解説
ゾルゲのグループが逮捕されたのは、彼らに協力していた日本人の共産主義者から足がついたためだった。1941年10月18日、ゾルゲやクラウゼンは一斉に逮捕され、1943年にクラウゼンは無期禁錮の判決を、アンナは懲役7年の判決を受けた(ゾルゲは死刑)。検察が死刑を求刑して控訴したため刑が確定したのは1944年になってからだった。最初巣鴨刑務所で服役していたが、連合国軍による爆撃が激化したため仙台に移された。 やがて1945年8月15日に終戦を迎え、日本に連合国軍が進駐すると、10月18日にクラウゼン夫妻は釈放された。釈放後夫妻は浦和に住み、やがて軽井沢に引っ越した。しかしアメリカ軍の情報部が彼らに関心を持っていることを知り、翌年日本を離れることにした。ただし、実際にはクラウゼン夫妻が日本でアメリカ陸軍情報部(MIS)から尋問を受けたことが、21世紀になって公開されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵資料に記録されている。 ソ連大使館のはからいで夫妻はウラジオストクに飛び、4週間にわたり入院した。ついでモスクワで日本での活動を報告。クラウゼンはクリスティアンゼンという名を受けて"クリスティアンゼン=クラウゼン"となり、ソ連軍占領下にある東ドイツに移った。 クラウゼンはドイツ社会主義統一党に入党して労働組合活動に戻り、東ベルリンの造船所人事部に職を得た。東ドイツ政府からカール・マルクス勲章、祖国功労勲章金賞を、ソ連政府から赤旗勲章を授与されている。妻アンナは1978年に死去し、翌年その後を追うようにクラウゼンは住居のある東ベルリンで死去した。 ベルリン・フリードリヒスハイン区の彼らが住んでいた通りは「リヒャルト・ゾルゲ通り」と改名され、「反ファシズムの闘士」クラウゼン夫妻を顕彰する銅板が現存する。
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