逮捕・取調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 18:19 UTC 版)
1953年の2月から3月にかけて、山本健一・清水光重・益田芳夫・尾崎彰春ら実行犯、直接の指揮者である梶原清晴、4月2日には山口組興行部・西本一三らを逮捕した。西本はヤクザでなく堅気であったことから、じわじわとした警察の取調べに「1月4日夕方に梶原とともに田岡に呼び出されて直接襲撃の指令を受けたこと、西本は懸命に反対したが聞き入れられなかったこと」を陳述した。調書に署名した後、西本は「自供したことが組に知られると、釈放されたあとに何をされるかわからない」と震えながら泣き出している。 4月23日に、田岡は山口組二代目・山口登の舎弟である興行師・永田貞雄に付き添われて天王寺警察署に出頭。田岡は「兼松が気に食わないで不快だ」と組員たちへ伝えていたことは認めたものの、自らの指示で襲撃させたということは頑として認めなかった。5月4日に田岡は処分保留のまま釈放され、西本も処分保留で釈放された。梶原・山本・清水・益田・尾崎は起訴され、山本は大阪地方裁判所にて同事件で懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。 田岡一雄は自伝で「兼松が失礼だから怒鳴ったが、襲撃自体は指示しておらず、組員が勝手にやったこと」と述べているが、警察は西本の協力がなければ襲撃事件が成立せず、堅気の西本が功名心に駆られて襲撃事件を企画する動機がないのだから、とりもなおさず田岡の直接の指令があったことは間違いないとみていた。
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