元服後とは? わかりやすく解説

元服後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:51 UTC 版)

徳川忠長」の記事における「元服後」の解説

元和6年1620年9月元服し金地院崇伝選定により諱を忠長とする。元和9年1623年7月家光将軍宣下際し権中納言任官同年11月7日織田信良の娘・昌子婚姻寛永元年1624年7月には駿河国遠江国一部掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石知行しこの頃より隣国諸大名等からは「駿河大納言」という名称で呼ばれる様になる。しかし、忠長自分将軍実弟である事を理由満足せず大御所である父・秀忠に「100万石を賜るか、自分大坂城城主にして欲しい」という嘆願書を送るも、呆れた秀忠から要求無視されこの頃より忠長は父に愛想を尽かされ始める。また、忠長要求知った家光からも、かつて祖父家康敵対した豊臣家所有し大坂の陣落城させた大坂城欲しようとしている忠長に、謀反意思があるのではないか疑われる様になり、幕臣達も諸大名持て囃される忠長の姿を「まるで将軍二人いるようだ」と評し神経尖らせていく。 寛永3年1626年)に権大納言となり、後水尾天皇二条城行幸の上洛にも随行する。これと前後して忠長は弟で後の会津松平家開祖となる保科正之葵紋入った家康遺品与えたり、正之に松平への復姓薦めたりしたと『会津松平家譜』には記されている。しかし、最大庇護者と言える存在であった母・江が死去したのを機に忠長深酒耽るなどの問題行動目立ち始め自身気付かぬ内に家光との確執深めていくことになる。 寛永3年1626年7月家光の上洛が決まった際に、大井川船橋掛けるが、幕府防衛線において重要拠点の場所である大井川無許可施工したことが問題視され逆に家光不興買ってしまうこととなる。さらに駿府では武家屋敷造成為に寺社郊外移そうとして反対され、家光との関係にさらに大きな摩擦生じた寛永7年1630年11月浅間神社付近にある賎機山狩りを行うも、殺生禁止されている神社付近行なった上に、そもそも賎機山では野猿神獣として崇められ殺す事自体禁止されており、更にこの浅間神社祖父家康14歳時に元服した徳川将軍家にとっても神聖な場所であったそのような場所で狩りを行うのは将軍家血を引くといえど許されないであったが、止めるよう懇願する神主対し忠長は自らが駿河領主である事と田畑荒ら駆除するという理由反対押し切って狩り続け、この一件忠長1240匹もの殺したとされている。更にその帰途の際に乗っていた駕籠担ぎ手の尻を脇差刺し驚いて逃げ出したところを殺害する乱行に及び、これらを聞いた家光激怒させ、咎められている。 寛永8年1631年12月鷹狩りに出かけた際に降り忠長が寺で休息した際に、小姓小浜七之助が濡れていた火を付けられなかった事に癇癪起こし手打ちにしてしまう。事態知って悲憤駆られた七之助の父親幕府訴え出た結果これまでの乱行数々もあって遂に家光堪忍袋の緒切れてしまうこととなり、これを理由として甲府への蟄居命じられるその際秀忠側近崇伝を介して赦免乞うが、許されなかった。 寛永9年1632年)の秀忠危篤に際して江戸入り乞うたがこれも許されなかった。一説では秀忠本人からも面会拒絶されたとしている。

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