元朝によるアイヌ攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:38 UTC 版)
アムール川下流域から樺太地域に居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した。翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・蝦夷とも)はアイヌを指している。亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている。 この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」(ニヴフや元朝の視点では「南からの骨嵬・亦里于襲来」)の初めであり、西日本に対する侵攻(元寇、1274年)より10年早かった。
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