元朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:31 UTC 版)
モンケ・カアンの死後、カアン位を巡ってクビライとアリク・ブケの間でモンゴル帝国帝位継承戦争勃発したが、クビライを支持する勢力には姻族コンギラトを含む「左手の五投下」があり、アリク・ブケを支持する最大の勢力は姻族オイラトであった。継承戦争の後、クビライがオイラトのクトカ・ベキ家を姻族とするアリクブケを破ってカアンとなったことで、再びコンギラトのアルチ・ノヤン家が最有力姻族として重視されるようになった。 クビライとチャブイの間に生まれたチンキムは皇太子として朝政に加わり、政敵アフマド・ファナーカティーの死後は臣下としては最大の権力を持つに至った。チンキムが父クビライに先立って急死するとその膨大な遺産は同じくコンギラト部出身の妻のココジンが管理することになり、ココジンはクビライ死後のクリルタイを主催するなどテムル・カアン時代初期まで大きな影響力を持った。 クビライの孫テムル・カアンは最初コンギラト部出身のシリンダリを妻としていたが早くに亡くなり、カアンに即位した後はバヤウト部出身のブルガン皇后が権力を握った。ブルガンはテムルが跡継ぎがいないまま亡くなった際、テムルの兄ダルマバラとコンギラト部出身のダギとの間に生まれた子供(カイシャンとアユルバルワダ)がカアン位に即くのを嫌い、安西王アナンダを後継者にしようとした。しかし、コンギラト派の臣下の工作によってダギとアユルバルワダがクーデターを起こし、最終的にカイシャンが新たなカアンとなった。 武宗、仁宗、英宗の三代に渡ってダギは皇帝の母或いは祖母として絶大な権力を振るい、時にはカアンの言葉よりダギの言葉の方が優先されることもあった。英宗シデバラはこの現状に不満を抱き、ダギの死後に改革を実行しようとしたが、守旧派の反対を受け、最後には御史大夫テクシらに暗殺されることとなった。 コンギラト派に属する反英宗の勢力は非コンギラトの妃から生まれた武宗カイシャンの息子を戴くことはできず、コンギラト出身のブヤンケルミシュを母に持つイェスン・テムルが新たなカアンとなった。岡田英弘は『元朝秘史』に「コンギラトは后妃を輩出することで権勢を保つ一族である」という一節があるのは、コンギラト勢力の絶頂期にあったイェスン・テムル即位時のクリルタイの際に編纂されたためである、という説を出している。 イェスン・テムルの死後、次代のカアンを巡って内乱が勃発し(天暦の内乱)、イェスン・テムルの息子アリギバは廃されカイシャンの息子コシラとトク・テムルがカアンとなった。天暦の内乱によって宮廷の守旧派も排斥され、コンギラト派が以前のように大きな権勢を持つ事もなくなった。
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