元服、侍従任官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 13:35 UTC 版)
天正16年(1588年)、9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下行侍従に叙位・任官した。4月の後陽成天皇の聚楽第行幸を記した『聚楽亭行幸記』には、三郎侍従秀信朝臣の名が見える。このときの列席した侍従・少将の官位を持つ大名の中での席次は5番目であり、前田利家や豊臣秀勝・結城秀康らに次いだ。 天正18年(1590年)の小田原征伐において、『寛政重修諸家譜』の堀秀政の項には秀信が六番隊として参陣して左備えの大将である秀政の指揮下で鉄砲隊を供出して戦ったとあるが、『堀家大系図』所収の秀吉朱印状には「六番 羽柴岐阜侍従」とのみあり、徳富蘇峰はこれを池田輝政として、天正十六年四月の聚楽第行幸の時点では輝政が岐阜侍従であることが確認できるのであって、記述は疑わしい。また『小田原陣陣立』によれば、六番隊は越前勢で構成され、同じく羽柴侍従であった青木秀以がおり、これとの混同の可能性も考えられる。いずれにしても、元服を終えたとはいえ、大した所領も与えられていない10歳そこそこの旧主の遺児が、陪臣の配下で参戦するとは考え難い。 なお、小田原征伐後に関東地方へ移封となった徳川家康の旧領への移封を拒絶した織田信雄が改易され、その後嫡男の織田秀雄が大名として取り立てられて織田家当主を継いだ。
※この「元服、侍従任官」の解説は、「織田秀信」の解説の一部です。
「元服、侍従任官」を含む「織田秀信」の記事については、「織田秀信」の概要を参照ください。
- 元服、侍従任官のページへのリンク