作詞家
作詞者
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現行「宮崎県民歌」作詞者の酒井 祐春(さかい すけはる、1928年 - 1998年10月15日)は日南市出身で、受賞時は同市内で酒屋を営んでいた。 入選後は作詞分野で目立った業績を残していないが、宮崎日日新聞の「窓」欄では頻繁に投書が採用されていた。1998年(平成10年)10月15日死去。享年71(満70歳没)。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 11:00 UTC 版)
新潟県が主催した一般公募の入選者は福岡県糟屋郡新宮町から応募した高下 玉衛(たかした たまえ、1913年 - 2011年)とされているが、高下は生前に「ビルマから当時引き上げて来たばかりで、とても作詞どころではなかった」と述べており、新潟県庁職員の聞き取りに対しては実作者が別に存在することを示唆していた。 高下の没後、2020年(令和2年)に当事者の遺族らが新潟日報の取材に応じ、新宮町に隣接する糟屋郡古賀町(現在の古賀市)出身で高下とは相婿(妻同士が実姉妹)の関係に当たる渋田 喜久雄(しぶた きくお、1902年 - 1978年)が応募に際して高下の名義を借りた実作者の可能性が高いことが報じられている。また、県民歌と同時に募集された越佐小唄でも同住所かつ「高下玉衛」名義の人物が佳作となっていた。 新潟県民歌の前年に制定された愛媛県の新居浜市歌は作詞者の名義が花田 豊(はなだ ゆたか)とされているが、新潟県民歌と歌詞が酷似していることと新居浜市立別子銅山記念図書館に所蔵された楽譜に記載された住所が同じ古賀町であることから、渋田のペンネームである可能性が高いとみられている。 実作者と目される渋田と新潟県の地縁については不明とされていたが、1939年(昭和14年)に新潟日報の前身に当たる新潟新聞が懸賞公募した「大陸開拓の歌」が「梅田健」名義で入選した際に、同紙のインタビューで幼少の一時期を西蒲原郡赤塚村(現在の新潟市西区赤塚)で過ごしたことを明かしている。また、この「大陸開拓の歌」の作曲者は9年後に「越佐小唄」を作曲した江口夜詩で、同じ懸賞公募のもう一篇の入選作「あなたの幸を祈ります」(作詞:本橋敏)を作曲したのが後に「新潟県民歌」を手掛ける明本京静であった。 渋田は「新潟県民歌」制定から15年後の1963年(昭和38年)に東京都町田市が行った「町田市歌」の一般公募で花田鶴彦(はなだ つるひこ)名義により入選しているが、同曲も「新潟県民歌」と同じく明本が作曲したものである。
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作詞者
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作詞者の松尾 松治郎(まつお まつじろう)は唐津市の出身で「県民歌」の歌詞公募が実施された際は東松浦郡有浦小学校(現玄海町立玄海小学校)の訓導であった。戦後は1948年(昭和23年)4月から1952年(昭和27年)3月まで厳木町立本山小学校(廃校、現在の唐津市立箞木小学校に校区統合)校長、1954年(昭和29年)4月から1956年(昭和31年)3月まで名護屋村立名護屋中学校(現唐津市立海青中学校)校長を歴任。1956年4月から翌1957年(昭和32年)3月まで玄海町立値賀中学校(現玄海町立玄海中学校)校長を務め、同校の校歌(作曲・増本光春)を作詞した。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 05:50 UTC 版)
一般公募で入選した作詞者の花田 龍彦(はなだ たつひこ、1902年 - 1978年)は福岡県出身で、昭和初期に「渋田黎明花」名義で時代小説作家として活動した渋田 喜久雄が用いたペンネームの一つである。渋田は生前に作詞家として非常に多くのペンネームを使い分けていたが、戦後は敦賀市歌の「花田龍彦」と一文字違いの「花田鶴彦」名義を主に使用していた。敦賀市歌と同じ「花田龍彦」名義では、愛知県の「豊川観光音頭」を作詞している。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 05:17 UTC 版)
作詞者の高松 茂夫(たかまつ しげお、1913年 - 1940年)は桃生郡鹿又村(河南町を経て現在は石巻市の一部)出身で、1932年(昭和7年)に宮城県師範学校を卒業して小学校教員となったが「宮城県民歌」を応募した際は病気療養のため帰郷中であった。審査委員の阿刀田令造は「支倉常長以来封建制下の種々等の制限を乗り越えて発展した雄大な理想を受け継いでいるので県民歌もそういうものを表すものでなければならない」と前置きし、高松の応募作が最もこの理想に適っていたとの選評を残している。 しかし、療養の甲斐なく入選から2年後の1940年(昭和15年)に死去した。享年28。 2001年(平成13年)、石巻市に住むピアニストの橋本宗子が第56回新世紀・みやぎ国体開会式で演奏される「輝く郷土」の歌唱指導に当たっていた際に旧「宮城県民歌」の存在と作詞者が母方の親戚であることを知り、復活演奏を提唱した。県では当初「県民の中で機運が盛り上がることが大事」としていたが、旧「宮城県民歌」を知る高齢者や県庁OBらを中心に賛同者を募った結果、現在では「輝く郷土」と合わせて県のサイトで紹介されるようになり実質的に「県民愛唱歌」のような形で復活している。 なお、2代目「輝く郷土」の作詞者である遠山徳男は高松の出身地である鹿又と同じ桃生郡に属する桃生村(桃生町を経て現在は鹿又と同様に石巻市の一部)の出身であった。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:08 UTC 版)
作詞者の櫻井宏に関しては塩竈市役所に制定当時の資料が残っておらず、長らく「経歴不詳」とされて来た。2020年(令和2年)に復活演奏の収録を行った後、制定当時の新聞記事での紹介およびいずれも戦後間もない時期に制定された新潟県民歌(「高下玉衛」名義)や愛媛県の新居浜市歌(「花田豊」名義)との歌詞の共通性から、福岡県出身で昭和初期に時代小説の分野で活動した渋田喜久雄(1902年 - 1978年)のペンネームである可能性が高いと東京日日新聞の後身に当たる毎日新聞宮城版で報じられている。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:23 UTC 版)
「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」の記事における「作詞者」の解説
作詞者のペンネーム「椿三平」こと池田誠一郎(1908年 - 2001年)については長らく「都内の出版社に勤務する編集者」と言うプロフィールしか知られていなかったが、1980年(昭和55年)に中国新聞社が刊行した『カープ30年』の編集過程において3代目「巨人軍の歌」入選から10年前の1953年(昭和28年)に「池田真琴」のペンネームで広島東洋カープの旧球団歌「広島カープの歌」を作詞していたことが判明した。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:25 UTC 版)
作詞者の外山雅一に関しては制定当時から長らく「経歴不詳」とされて来たものの、制定から34年後の1986年(昭和61年)になり実作者が高橋 淳(たかはし じゅん、1925年 - 1951年)であったことが室蘭市に居住する高橋の遺族が帯広市役所を訪ねて遺稿集を寄贈したことにより判明した。 高橋は室蘭市出身で旧制室蘭中学校在学中に結核を患い、大学進学を断念して療養生活を送る傍ら「高橋銀河」のペンネームで詩作に取り組んでいた。戦前・戦中は日の目を見なかったが戦後になってからは懸賞公募で入賞する機会が増加し、遠軽高校の校歌を手掛けたのを始め1950年(昭和25年)には国家消防庁選定の愛唱歌「みどりの山河」に本名の「高橋淳」名義で入選し、西條八十の補作、古関裕而の作曲により日本コロムビアからレコード化された他、同年制定の「山梨県の歌」に佳作で入賞している。 遺族によると高橋は生前に帯広を訪れたことは無いが、雪印の社員で帯広の地理に詳しい「外山雅一」という人物が知人にいたのでその人物から聞いた市街のイメージを基に「帯広市市歌」の歌詞を書き上げ、名義を借りて応募したのではないかと推測されている。なお高橋は入選の報を知ることなく前年の1951年(昭和26年)に26歳で逝去しており、結果的に本曲が遺作となった。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 04:01 UTC 版)
永年作詞者は不詳とされていたが、1989年(平成元年)5月に宮原晃一郎の一人娘の典子が、この歌詞は宮原が小樽新聞記者当時の1908年に文部省の新体詩懸賞に応募し、佳作当選した「海の子」という詩が元になったと主張した。翌年の1909年1月26日、宮原は文部省への著作権の譲渡に同意したとされている。この主張に基づき、歌詞のモチーフとなった海は宮原が生れ育った鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)だとして、湾に面する鹿児島市祇園之洲町の祇園之洲公園に歌碑が建てられた。しかし実際には宮原が作詞者であるという直接的な証拠が示されたことはなく、錦江湾がモチーフになったという根拠は全くない。一方、芳賀の義理の娘は、芳賀が育ったのも福井の海の近くだったことから、そこがモチーフになっている可能性もあるのではないかと述べた。
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作詞者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 08:18 UTC 版)
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部」に発表された西條の歌詞が元になっている。直接の作詞は、後に回天の第1期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉(1995年1月6日死去)が、海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」というクラブにあったレコードを基に替え歌にしたとも、同じく潜水艦乗員であった槇(旧姓岡村)幸兵曹長とも言われていた。 「戦友の唄」を収録したレコードは昭和14年(1939年)7月にキングレコードから発売されたが、全くヒットしなかった。レコード番号は30080、歌唱は樋口静雄。 1984年(昭和59年)5月5日、当時呉軍楽隊に勤務していた谷村政次郎(後に海上自衛隊東京音楽隊長)が金本クラブを訪れ、割れてはいたが「戦友の唄」のレコードが見つかり(現在は江田島市ふるさと交流館1階に展示)、帖佐の証言が正しいことが証明された。ただし、5番まである歌詞のうち、3番と4番は帖佐も作詞していないと証言しており、人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在することから、真の作詞者は特定できない状態にある。
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