作詞法
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字余りの作詞法 曲作りに多用した"字余り、"字足らずという作詞法は、日本に於けるその元祖といわれ、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた。それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜1つに1つの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない、言葉を自由にメロディに載せる、あるいは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである。字余りソングは当時顰蹙も買ったが、それはメロディを超えて、訴えたいことがたくさんあったからである。そのオリジナリティは半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはない。 拓郎はこの字余り、字足らず詞の創作について、1974年の芸能誌で言及しており、「言葉が七五調にすっぽりおさまっちゃうというのは、どこかにインチキがあるんじゃないかな。それには当てはまらない心のつぶやきとか、はみ出してくる感情のたかまりというものがあるはずでしょう。それは字余り、字足らずでなきゃ表現できないと思う」などと述べている。 小田和正は「昔は見よう見まねで歌詞を書いていた。でもある時、字余りソングみたいなものが出てきた。その象徴が吉田拓郎で、新しいものが出てきた瞬間だったと思う」などと述べている。ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「日本のオリジナル曲も充実してきて、日本語と海外のサウンドという問題についていえば、日本語の壁は破れたんじゃないかと思います。拓郎が歌ってた時は"字あまり"っていわれてたけど、今、サザンが歌っても"字あまり"っていわないでしょう」と述べている。 小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察において、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで『私は』と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている。 音楽通とされる志村けんは、「日本語って、やっぱりロックに合わないんだろうねえ。でも、日本語を英語っぽく歌って成功したのは吉田拓郎じゃないかと思うんだよね。桑田佳祐よりも前ですね。それと、拓郎のほうがビートルズっぽかったですね」と論じている。 赤坂泰彦は「言葉を詰め込むというか、むしろ字余り的な、拓郎さんが書く曲から日本語の歌が変わっていって、後のサザンオールスターズや長渕剛さんなども影響を受けていると思う」などと評している。 拓郎の"字余り字足らずソング"については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」、成毛滋は「だいたい"字余りソング"なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」などと批判している。 です・ます調の普及者 作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその"普及者"といわれる。拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた。 拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 などと述べている。 こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。穂口雄右が手がけたキャンディーズの「春一番」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た。 その他 他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった。他に「コードとリズムの上に、歌詞をのせていくような」「メロディを歌うというよりも、詩を語っているような」「アドリブで歌っているような」という表現もされた。南こうせつは「僕らが『ああ夕日が綺麗だね、君のこと愛してるよ』とかという詞が多かったのに『これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか!?~』って初めて聴いて、そんなことを詞に平気にして歌うっていう、カッコ良かったし、ショックでした。衝撃のシンガーソングライターでした」などと拓郎を評している。 小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです。ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ。僕はザ・フォーク・クルセダーズもジャックスも岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」などと述べている。 [[ROLLYと山本恭司は「『青春の詩』を初めて聴いた時、心の深いところに突き刺さった」等と述べている。 かまやつひろしは「日本人は特にサウンド志向だから、僕なんかもサウンド志向でした。だからフォークはあまり知らなくて、60年代中頃に流行していたカレッジ・フォークが大嫌いで、いとこの森山良子に『ヤメロ』と何度言ったか分からないんです。ところが吉田拓郎さん以後のフォークの詞ってちょっとブラックでね、苦笑しちゃうような。そこに惹かれたんだな。だけどフォークがメジャーになるとは思いませんでした」などと述べている。 鮎川誠は「高田渡や吉田拓郎や友部正人たち、フォークの人たちが日本語で歌いよるの見とってね。僕らもブルースを深くまでかじって、これを生かして日本語のオリジナル曲を作った」等と述べている 小室哲哉は「英語を使わずに自由に表現する歌詞、何もかもかっこいい」と評している。 拓郎は篠島ライブを控えた1979年夏の芸能誌のインタビューで、当時世間からニューミュージックが「軟弱」とか「クラい」などと叩かれていたことに腹を立て、「篠島でやるのは、一晩、誰も知った奴のいない離れ島へ来れば、少しは親や家族などの周囲との関係も変わるんじゃないかと思ったことだ。篠島って海の中の小島から日本ってモンをもう一度見直せば、考え方にも何かの変化が起きるだろう。ようは自立しろ!ってことだ。若い連中、特に男が軟弱になっちまってるコトにイライラするんだ。今のニューミュージックっていわれてる連中のコンサートだって、聴きに来てるのは圧倒的に女だろ。男はどこへ行っちまったんだよ。そうしちまったのは、ミュージシャン側にももちろん責任はある。今のニューミュージックといわれる連中の歌の世界には、"ボク"と"アナタ"しか出て来ない。"オメエラ"の世界がないんだよ。それは主張、つまり主義=イズムが歌う側にないからだろ。イズムのない歌は演歌だよ。特に男の歌手が何で女言葉で歌うんだ?それは昔の演歌だよ。オレは聴いてられない。ニューミュージック何て名前が泣くよ。別に男だ女だとこだわるつもりはない。今はもう男も女も一緒よ。男が女性化してるんだ。だから"やさしさ"しかウケないんだな。この前『セイ!ヤング』に女の子からハガキがあって『拓郎さんのはウルサイ。最初から最後まで叫んでばかりいる』って書いてあってな。オレは納得しちゃったけどな。結局、快いやさしい声や音楽しか求めちゃいないんだ。歌には詩がある、なんてことをまるで考えちゃいないんだよ。オレは叫ぶ。それがオレの"歌"だからね」等と捲し立てた。 「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」などの作者・横浜銀蝿の嵐は「一番影響を受けたのは詞の世界は吉田拓郎さん。拓郎さんの詞って温かくて好きなんだ」などと述べている。
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