大火以前(1787年まで)
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「ノイルピーン」の記事における「大火以前(1787年まで)」の解説
この地の先史時代の集落形成については、中石器時代から初期青銅器時代を経て、当初はゲルマン人、後にスラヴ人集落があり、場所はルピーン湖畔の旧市街地域、「新市場 (Neuer Markt)」や周辺地域であった。スラヴ人時代後期、この地域には Zamcici 族が定住し、アルト・ルピーン南方に浮かぶ島、ポッゲンヴェルダー (Poggenwerder) の城塞(ドイツ語版)に根拠地をおいた。1147年のヴェンド十字軍の後、アルブレヒト熊公らドイツ人領邦君主がこの地を征服すると、1214年からアルト=ルピーンのアムツヴェルダー (Amtswerder) スラヴ人城址付近に、大規模な低地城塞(ドイツ語版)、「プラーネンブルク (Planenburg)」が建設された。城塞の北側前面には市場集落 (Marktsiedlung) ができ、ニコライ教会 (Nikolaikirche) が建てられた。その東に隣接するリーン川対岸にできた「キーツ (Kietz, 地区)」がオルデン・ルピーン (Olden Ruppyn)、すなわちアルト・ルピーン(ドイツ語版)である。 城塞の南西にも13世紀初頭からルピーン (Ruppin) という名をもつ集落が生まれた。これが今日のノイルピーンである。集落にはニコライ教会があり、芝生の共有地には街道市場 (Straßenmarkt) が設けられた。 その後当時のルピーン(現在のノイルピーン)は、リンドウ=ルピーン家(ドイツ語版)が計画的に新規建設した都市となった。 この伯爵家はアルンシュタイン家(ドイツ語版)に連なる家系で、アルト・ルピーンを統治していた。最初の記録は1238年に遡る。当初は市場権(ドイツ語版)による市場集落であったアルト・ルピーンは、1246年にこの地にドミニコ会の修道院が設立された頃には、今日のノイルピーンにまで広がっていたといわれている。修道院にとっては、エルベ川とオーダー川の間で初となる支部であった。初代修道院長はヴィヒマン・フォン・アルンシュタイン(ドイツ語版)であった。1256年3月9日にはギュンター・フォン・アルンシュタインによって、シュテンダール(ドイツ語版)法 (Stendaler Stadtrecht) に基づく都市権を与えられた。13世紀には都市の要塞化が、防禦柵、防塁・環濠方式を用い進められ、後に城壁、防塁・環濠方式になった。24か所の城壁組込型の番屋 (Wiekhaus) と2本の高い塔で都市壁は強化された。加えて門が3か所に設けられた。北側にはアルトルピーン門/ラインスベルク門 (Altruppiner/Rheinsberger Tor)、南側にはベルリン門/ベヒリーン門 (Berliner/Bechliner Tor)、東側には湖門 (Seetor) であった。遅くとも15世紀頃には都市を取り巻く城壁が完成した。 ノイルピーンで最古の地域は細長い緑地帯、すなわち南北都市門間を並走する2本の道路に挟まれた部分であり、その南には最古の教会、聖ニコライ教会がある。ノイルピーンの目抜き通りは16世紀中頃から舗装されている。ノイルピーンを北西から湖に向かって横切るのは、ルピーナー・メッシェ (Ruppiner Mesche) を起点とする堀、クラップグラーベン (Klappgraben) であり、雑用水の供給、また排水に用いられた。1537年には一部が埋められ、1787年の大火後はシンケル通り (Schinkelstraße) に運河として再整備された。 ノイルピーンは中世には北東ドイツの大規模都市の一つになっていた。この時代のものには、例えば都市壁の一部、聖三位一体修道院教会 (Klosterkirche St. Trinitatis, 1246年)の一部、聖ゲオルク礼拝堂 (St. Georgs-Kapelle, 1362年)、診療院 (Siechenhospital, 1490年) と1491年に落成した聖ラツァルス礼拝堂 (St.-Lazarus-Kapelle)、湖畔地区の遺構がある。中世の市街の範囲は、ほぼ正方形の約700メートル四方であったが、東の隅はひしゃげた形状であった。東側と南東側の境界はルピーン湖畔にあった。 平和条約を記念し選帝侯ヨアヒム1世は1512年、ノイルピーンで3日間にわたる馬上槍試合を開催した。これは.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 当時、国中の話題をさらい、その見事なことといえば、いまだかつてベルリンにもシュプレー河畔のケルン(ドイツ語版)にもなかったほどだった。 —テオドール・フォンターネ、『マルク・ブランデンブルク周遊記』-第1巻:ルピーン伯領-第9章 リンドウ=ルピーン伯爵家が断絶すると、1524年にノイルピーンは選帝侯ヨアヒム1世の封土となった。三十年戦争ではノイルピーンも大きな被害を受け、1685年以降はフランス人のユグノーが移住してきた。 宗教改革が進むと、修道院の領地は1540年頃には選帝侯の手に渡った。1564年、選帝侯は都市に修道院を寄贈した。この時代に起きたのが、修道院教会内に描かれる伝説である。小柄なハツカネズミが大柄なクマネズミを追い回すというもので、この教会が今後もルター派であり続けることを象徴的に暗示している。 記録に残るノイルピーン最古の学校は1365年のラテン語学校である。当時、非常に重要な教育機関であり、この地域にとどまらず広く知られていた。学校の歴史は1477年以来しっかりと記録が残されている。1777年にフィリップ・ユリウス・リーバーキューン(ドイツ語版)とヨハン・シュトゥーフェ(ドイツ語版)が学校運営を引き継ぐと、ヨハン・ベルンハルト・バゼドウの意図するところ改革され、この地域にとどまらず、多くの人々から広く注目された。 1688年、ノイルピーンはブランデンブルクで初の衛戍都市の一つになった。かのフリードリヒ大王も王太子時代にこの地に滞在した。逃亡に失敗し、キュストリーン要塞に幽閉された後、1732年から1740年まで王太子歩兵連隊(ドイツ語版)の主を務めた。なおベルンハルト・フェルトマン(ドイツ語版) が都市の勤務医になったのはこの時代である。彼が残した参事会文書の写しには、歴史的に興味深い文書が含まれ、今日では都市初期の歴史にとって最重要な文献集となっている。原本は1787年の大火で焼失してしまったためである。都市の人口は当時は3,500人であったが、これに対して軍人および部隊所属の民間人は時に1,500人に上った。このような状況はドイツ駐留ソ連軍集団が撤退するまで続くことになる。 1740年からノイルピーンに工房を開いたオルガン製作者ゴットリープ・ショルツェ(ドイツ語版)は、なかでもラインスベルク(ドイツ語版)のオルガンで名高い。
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