大火以前とは? わかりやすく解説

大火以前(1787年まで)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:20 UTC 版)

ノイルピーン」の記事における「大火以前(1787年まで)」の解説

この地の先史時代集落形成については、中石器時代から初期青銅器時代経て当初ゲルマン人、後にスラヴ人集落があり、場所はルピーン湖畔旧市街地域、「新市場 (Neuer Markt)」や周辺地域であったスラヴ人時代後期、この地域には Zamcici 族が定住し、アルト・ルピーン南方に浮かぶ島、ポッゲンヴェルダー (Poggenwerder) の城塞ドイツ語版)に根拠地をおいた。1147年ヴェンド十字軍の後、アルブレヒト公らドイツ人領邦君主がこの地を征服すると、1214年からアルト=ルピーンのアムツヴェルダー (Amtswerder) スラヴ人城址付近に大規模な低地城塞ドイツ語版)、「プラーネンブルク (Planenburg)」が建設された。城塞北側前面には市場集落 (Marktsiedlung) ができ、ニコライ教会 (Nikolaikirche) が建てられた。その東に隣接するリーン対岸にできた「キーツ (Kietz, 地区)」がオルデン・ルピーン (Olden Ruppyn)、すなわちアルト・ルピーン(ドイツ語版)である。 城塞南西にも13世紀初頭からルピーン (Ruppin) という名をもつ集落生まれた。これが今日ノイルピーンである。集落にはニコライ教会があり、芝生共有地には街道市場 (Straßenmarkt) が設けられた。 その後当時のルピーン(現在のノイルピーン)は、リンドウ=ルピーン家(ドイツ語版)が計画的に新規建設した都市となった。 この伯爵家アルンシュタイン家(ドイツ語版)に連なる家系で、アルト・ルピーンを統治していた。最初の記録1238年遡る当初市場ドイツ語版)による市場集落であったアルト・ルピーンは、1246年にこの地にドミニコ会修道院設立された頃には、今日ノイルピーンにまで広がっていたといわれている。修道院にとっては、エルベ川オーダー川の間で初となる支部であった初代修道院長はヴィヒマン・フォン・アルンシュタイン(ドイツ語版であった1256年3月9日にはギュンター・フォン・アルンシュタインによって、シュテンダールドイツ語版)法 (Stendaler Stadtrecht) に基づく都市権与えられた。13世紀には都市要塞化が、防禦柵、防塁環濠方式用い進められ、後に城壁防塁環濠方式になった24か所の城壁組込型の番屋 (Wiekhaus) と2本の高い塔で都市壁は強化された。加えて門が3か所に設けられた。北側にはアルトルピーン門/ラインスベルク門 (Altruppiner/Rheinsberger Tor)、南側にはベルリン門/ベヒリーン門 (Berliner/Bechliner Tor)、東側には湖門 (Seetor) であった遅くとも15世紀頃には都市取り巻城壁完成したノイルピーン最古地域細長い緑地帯、すなわち南北都市門間並走する2本の道路挟まれ部分であり、その南には最古教会聖ニコライ教会がある。ノイルピーン目抜き通り16世紀中頃から舗装されている。ノイルピーン北西から湖に向かって横切るのは、ルピーナー・メッシェ (Ruppiner Mesche) を起点とする堀、クラップグラーベン (Klappgraben) であり、雑用水供給、また排水用いられた。1537年には一部埋められ1787年大火後シンケル通り (Schinkelstraße) に運河として再整備された。 ノイルピーン中世には北東ドイツ大規模都市一つになっていた。この時代のものには、例え都市壁の一部聖三位一体修道院教会 (Klosterkirche St. Trinitatis, 1246年)の一部聖ゲオルク礼拝堂 (St. Georgs-Kapelle, 1362年)、診療院 (Siechenhospital, 1490年) と1491年落成した聖ラツァルス礼拝堂 (St.-Lazarus-Kapelle)、湖畔地区遺構がある。中世市街範囲は、ほぼ正方形の約700メートル四方であったが、東の隅はひしゃげた形状であった東側南東側境界はルピーン湖畔にあった平和条約記念し選帝侯ヨアヒム1世1512年ノイルピーン3日間にわたる馬上槍試合開催した。これは.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 当時国中話題をさらい、その見事なことといえば、いまだかつてベルリンにもシュプレー河畔ケルンドイツ語版)にもなかったほどだった。 —テオドール・フォンターネ、『マルク・ブランデンブルク周遊記』-第1巻:ルピーン伯領-第9章 リンドウ=ルピーン伯爵家断絶すると、1524年ノイルピーン選帝侯ヨアヒム1世封土となった三十年戦争ではノイルピーン大きな被害を受け、1685年以降フランス人ユグノー移住してきた。 宗教改革が進むと、修道院領地1540年頃には選帝侯の手渡った1564年選帝侯都市修道院寄贈した。この時代起きたのが、修道院教会内に描かれる伝説である。小柄なハツカネズミ大柄なクマネズミ追い回すというもので、この教会今後ルター派であり続けることを象徴的に暗示している。 記録に残るノイルピーン最古学校1365年ラテン語学校である。当時、非常に重要な教育機関であり、この地域とどまらず広く知られていた。学校の歴史1477年以来しっかりと記録残されている。1777年にフィリップ・ユリウス・リーバーキューン(ドイツ語版)とヨハン・シュトゥーフェ(ドイツ語版)が学校運営引き継ぐと、ヨハン・ベルンハルト・バゼドウ意図するところ改革され、この地域とどまらず多く人々から広く注目された。 1688年ノイルピーンブランデンブルクで初の衛戍都市一つになった。かのフリードリヒ大王王太子時代にこの地に滞在した逃亡失敗しキュストリーン要塞幽閉された後、1732年から1740年まで王太子歩兵連隊ドイツ語版)の主を務めた。なおベルンハルト・フェルトマン(ドイツ語版) が都市勤務医になったのはこの時代である。彼が残した参事会文書写しには、歴史的に興味深い文書含まれ今日では都市初期の歴史にとって最重要文献となっている。原本1787年大火焼失してしまったためである。都市人口当時は3,500であったが、これに対して軍人および部隊所属民間人時に1,500人に上ったこのような状況ドイツ駐留ソ連軍集団撤退するまで続くことになる。 1740年からノイルピーン工房開いたオルガン製作者ゴットリープ・ショルツェ(ドイツ語版)は、なかでもラインスベルク(ドイツ語版)のオルガン名高い

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