大火の際の出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 23:29 UTC 版)
ボストン大火の際の主な出来事: 作家オリバー・ウェンデル・ホームズは、ビーコンヒルの自宅から火災の様子を注視していた。 発明家アレクサンダー・グラハム・ベルは、自らの目撃証言を『ボストン・グローブ』紙に書き送った。しかし、ベルの散文に感銘を受けなかった同紙は、この書簡を紙上に掲載しなかった。 1871年10月のシカゴ大火から、わずか1年しか経っていなかった。 市民や、建物所有者の懸念にもかかわらず、火の進行方向にあった建物は、延焼を防ぐ意図から、火薬を用いて破壊された。しかし、一連の爆破作業は、効果よりも損害の方が大きかった、とする議論が大勢を占めることになった。 大火によってボストン上空が明るくなっていたことが、メイン州沖にいた船の航海日誌に記録された。 バーモント州を除くニューイングランド各州の消防局は、列車に消防ポンプと消防隊員、さらに多数の見物人たちを乗せてボストンに到着した。 来援した消防ポンプの中には、ニューハンプシャー州マンチェスターから来た、2台のアモスケグ蒸気消防ポンプ(Amoskeag Steamer)があった。うち1台は、最初に製造された製造番号1番のアモスケグであり、マンチェスター消防局が所有していた。もう1台は、最初の自動式アモスケグで、製造会社が送ってきたものであった。その働きぶりに感銘を受けたボストン市当局は、大火後、この自動式ポンプを購入した。この自動式蒸気消防ポンプは、米国で初めて実用に供されたものとなった。 延焼中の地域では、火事場泥棒を追い立て続けなければならなかった。 ワシントン・ストリートでは、ボストン茶会事件の舞台となったオールド・サウス・ミーティング・ハウスが、濡らした毛布で消火に当たった市民たちの消防活動と、ニューハンプシャー州ポーツマスから来援したアモスケグ蒸気消防ポンプ「キアサージ」(Kearsarge Steam Fire Engine)の働きによって被災を免れた。 当時、この大火で建物を焼失した事業所の中には、以下の例のように、今日でもボストンで広く知られている事業所が含まれていた。『ボストン・グローブ』紙 - 新聞社 『ボストン・ヘラルド』紙(The Boston Herald) - 新聞社 シュリーブ・クランプ・アンド・ロウ(Shreve, Crump & Low) - 宝飾店 カーターズ・インク・カンパニー(Carter's Ink Company) - インク製造 当時、ハーバード大学の学生だったハーヴェイ・W・ワイリー(Harvey W. Wiley)(後年「連邦食品・医薬品法の父」と称されたアメリカ食品医薬品局初のコミッショナー)は消火活動に参加し、後にその時の経験について自伝で言及している。
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