大火と再建とは? わかりやすく解説

大火と再建(1787年-1803年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:20 UTC 版)

ノイルピーン」の記事における「大火と再建(1787年-1803年)」の解説

都市発展重要な転機となったのは、1787年8月26日日曜日大火であった火元ベルリン近く納屋で、大量穀物保管していた。当日午後出火後、火は瞬く間燃え広がった被害免れたのは、東部西部の端の2か所のみだった。被害合計市民家屋401棟、別棟・後屋が159棟、家畜小屋228棟、納屋38棟、そして聖マリア教区教会 (Pfarrkirche St. Marien)、参事会館、改革派教会王太子宮殿失われた死者は出なかった。被害金額はおよそ60ターラー算定された。火災保険から約22ターラー教会集めた特別献金が6ターラープロイセン王国政府都市再建資金として13ターラー用立てたプロイセンその後数年間で合計100万ターラー以上を支出した1783年から既に都市建築局長 (Stadtbaudirektor) の任にあったベルンハルト・マティアス・ブラッシュ (Bernhard Mattias Brasch) は、再建委員会裁量範囲変更し都市再建監督した再建には1788年から1803年でかかったが、総合計画どおりに実施された。ブラッシュ計画では、テンペルガルテン (Tempelgarten, 神殿庭園) と湖の間にある都市壁を取り除き都市46ヘクタールから約61ヘクタール拡大することを企図していた。南北方向の2本の通り近接していたため、1本の幹線道路今日カール=マルクス通り)に集約された。こうして直交する街路網と、三階建てで通り抜け可能な家屋立ち並ぶことになった堂々たる広場に至る長大広幅街路初期新古典主義様式家屋は、この時代の街のたたずまい特徴である。この都市建築改革原理今日でもはっきりと見て取ることができる。こうして唯一無比新古典主義様式都市構成誕生し今日でも初期新古典主義都市計画芸術模範となっている。再建完了したのは1803年になってからであった。聖マリア教区教会1801年から1806年にカール・ルートヴィヒ・エンゲル(ドイツ語版)の参加得て建設)の完成のみ、静力学上の問題から1806年までずれ込んだ

※この「大火と再建(1787年-1803年)」の解説は、「ノイルピーン」の解説の一部です。
「大火と再建(1787年-1803年)」を含む「ノイルピーン」の記事については、「ノイルピーン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大火と再建」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大火と再建」の関連用語

大火と再建のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大火と再建のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのノイルピーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS