第二の隆盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:21 UTC 版)
16世紀初頭に建国されたサファヴィー朝の創始者イスマーイール1世は、コフネ広場の南にハール・ネヴェラーヤトと呼ばれるスーフィーの聖者の霊廟とアリー・モスクを建立した。16世紀を通して王朝が派遣した地方官や土着の有力者によって、多くの建設事業が行われた。1597年にアッバース1世によって、エスファハーンはサファヴィー朝の新首都に定められる。 アッバース1世は町の南西の馬場と青空市に使われる広場を新市街の中心地に選定し、王の広場(後世のイマーム広場)を建設した。王宮地域の西側には、ザーヤンデルードの南岸と北岸を結ぶチャハール・バーグ大通りが建造され、通りの始点と終点、側面に庭園が造られた。 王の広場やチャハール・バーグ大通りを中心とする計画都市としての大規模な市街改造が進められる。王の広場の一角に建立されたシャイフ・ルトゥフッラー・モスク(英語版)、王のモスク(イマーム・モスク)、アーリー・ガープー宮殿(英語版)などの施設が、新市街に建設された。17世紀のはじめに西方の世界で飲まれていたコーヒーがイランに伝播すると、建設中の王の広場にコーヒーハウスが建設された。 王の広場は外国の使節との謁見、閲兵、青空市、公開処刑など多種のイベントが行われる場所であり、使節との謁見やノウルーズ(新年祭)の時にはポロや花火も催された。広場はレスリング、古式体操の競技場としても使用された。さらに、イベントの観客を目当てにする大道芸人や娼婦の客引きが広場に集まった。 新市街と旧市街はバーザール(商業地区)で結ばれ、都市の商業が活発化する。夏の酷暑と風雨を防ぐため、バーザールにはドーム状のアーケードが設置された。バーザールの道沿いに建てられていたキャラバンサライでは、小売りの商人が卸売りから品物を仕入れていた。 旧市街にはバーザールで働く商人や職人の多くが居住し、コフネ広場と周辺には商店が軒を連ねていた。また、コフネ広場の周辺には、コクナールという一種の麻薬を売る店や、少年の男娼や娼婦をあてがう置屋が並ぶ界隈が存在していた。 1604年にアッバース1世によって当時国際交易で活躍していたアルメニア人がエスファハーン郊外に移住させられ、1654年に彼らは町の南西のジョルファー(Julfā)と呼ばれる地区に居住した。「ジョルファー」の語源はアゼルバイジャンのアラス河畔にある町の名前であり、絹交易で利益を得ていた。オスマン帝国の食糧補給の妨害のため、ジョルファーの収益がオスマン帝国の手に渡ることを阻止するため、アッバース1世はアルメニアの住民をイランに強制的に移住させたと考えられている。アルメニア人には数々の特権が付与され、王室が独占する絹交易に従事することを許された。ジョルファーには、アルメニア人の寄付によって建立されたヴァーンク教会などの、いくつかのキリスト教徒の教会が存在する。また、ジョルファーの西のゲブラーバードには、ゾロアスター教徒の居住区が形成されていた。 17世紀には、スーフィズム(神秘主義)の影響を強く受けた思想家がエスファハーン学派を形成し、哲学論を巡らせていた。 17世紀末にはエスファハーンの人口は500,000人を超え、トルコ人、アラブ人、インド人、アルメニア人、ユダヤ人、ゾロアスター教徒が混在する他文化都市となっていた。そして町には1802のキャラバンサライ、162のモスク、48のマドラサ(学校)、273のギャルマーベ(公衆浴場)が建ち並んでいた。町の繁栄の様子は17世紀末のエスファハーンを訪れたフランスの商人ジャン・シャルダンによって記録され、1711年にヨーロッパで出版された。 18世紀に入るとサファヴィー朝は衰退し、1722年にアフガン人によってエスファハーンは破壊される。サファヴィー朝が滅亡して新市街から宮廷が消えると新市街は急速に衰退し、荒廃した新市街の大部分は耕作地にされた。 1756年から1757年にかけて町を襲った飢饉によって約40,000人の市民が餓死、1759年より知事のムハンマド・リナーニーのもとで復興事業が始められる。
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