第二の黄金期: 1940年代後半、国民党の時代とは? わかりやすく解説

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第二の黄金期: 1940年代後半、国民党の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 21:16 UTC 版)

中国映画」の記事における「第二の黄金期: 1940年代後半、国民党の時代」の解説

1945年以降中国の映画産業界発展続けた大手映画会社であった華影公司は、第二次世界大戦後上海再度設立され左派監督拠点となった。その多くは、蔣介石率い国民党弾圧的な方針対す幻滅示している。『家々の灯(灯火)』(1948年)、『カラスと雀烏鴉麻雀)』(1949年)、『三毛流浪記』(1949年)、特に重要なものとして『春の河、東へ流る一江春水東流)』(1947年)などが、この時期制作され主な古典的名作として挙げられる。『春の河、東へ流る』は3時間を越え大作で、日中戦争立ち向かう一般中国国民戦い描いている。上海文華影業公司は、聯華影公司と並ぶ左派映画会社のひとつで、この時代傑作とされる作品いくつか制作している。その中で費穆監督した田舎町の春小城之春)』(1948年)は、中国の映画批評家達によって、中国映画史の中でもっとも影響を与えた作品のひとつと考えられている。 1949年共産党支配権確立すると、政府映画重要な大衆向け芸術作品であるとともにプロパガンダとして見なすうになる1951年政府マスメディア統制強化するため1949年以前中国映画香港映画アメリカ映画の上映を禁止し代わりに農民兵士労働者中心となる『橋』1949年)や『白毛女』(1950年)といった映画制作進める。 1949年には4700万人だった映画鑑賞者数は、1959年には4億1500万人へと急激な増加見せた。同じ年、映画鑑賞者の延べ数は417000万人にも達している。1949年中華人民共和国設立から文化大革命までの17年間、主要作品603作品、8,342巻ものドキュメンタリー映画ニュース映画共産党プロパガンダとして政府により制作された。この頃中国の映画制作者ソビエト連邦の映画を学ぶためモスクワへ送られた。 1956年北京電影学院開校した中国初のワイドスクリーンによる映画1960年制作された。 切り絵影絵人形劇伝統絵画などの民族芸術取り入れたアニメ映画子供エンターテイメント、あるいは教育として非常に人気高かったその中でもっとも人気だったのが、ロンドン映画祭優秀賞獲得した中国アニメ界の開祖"兄弟"の長男万籟鳴 による『大鬧天宮』(2部作、1964年)である。 1956年から1957年、また1960年代初期検閲緩和により、中国固有の映画制作されるようになり、ソビエトからの脱却動き見られた。この時代代表的な映画制作者は、『紅色娘子軍』(1964年)、『舞台姉妹舞台姉妹)』(1965年)の謝晋がいる。

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