第二の黄金期: 1940年代後半、国民党の時代
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1945年以降、中国の映画産業界は発展を続けた。大手映画会社であった聯華影業公司は、第二次世界大戦後、上海で再度設立され左派監督の拠点となった。その多くは、蔣介石率いる国民党の弾圧的な方針に対する幻滅を示している。『家々の灯(万家灯火)』(1948年)、『カラスと雀(烏鴉与麻雀)』(1949年)、『三毛流浪記』(1949年)、特に重要なものとして『春の河、東へ流る(一江春水向東流)』(1947年)などが、この時期に制作された主な古典的名作として挙げられる。『春の河、東へ流る』は3時間を越える大作で、日中戦争に立ち向かう一般の中国国民の戦いを描いている。上海の文華影業公司は、聯華影業公司と並ぶ左派の映画会社のひとつで、この時代の傑作とされる作品をいくつか制作している。その中でも費穆が監督した『田舎町の春(小城之春)』(1948年)は、中国の映画批評家達によって、中国映画史の中でもっとも影響を与えた作品のひとつと考えられている。 1949年、共産党が支配権を確立すると、政府は映画を重要な大衆向け芸術作品であるとともにプロパガンダとして見なすようになる。1951年、政府はマスメディアの統制を強化するため1949年以前の中国映画、香港映画、アメリカ映画の上映を禁止し、代わりに農民、兵士、労働者が中心となる『橋』(1949年)や『白毛女』(1950年)といった映画の制作を進める。 1949年には4700万人だった映画鑑賞者数は、1959年には4億1500万人へと急激な増加を見せた。同じ年、映画鑑賞者の延べ数は41億7000万人にも達している。1949年の中華人民共和国設立から文化大革命までの17年間、主要作品が603作品、8,342巻ものドキュメンタリー映画、ニュース映画が共産党のプロパガンダとして政府により制作された。この頃の中国の映画制作者はソビエト連邦の映画を学ぶためモスクワへと送られた。 1956年、北京電影学院 が開校した。 中国初のワイドスクリーンによる映画は1960年に制作された。 切り絵や影絵、人形劇、伝統絵画などの民族芸術を取り入れたアニメ映画は子供のエンターテイメント、あるいは教育として非常に人気が高かった。その中でもっとも人気だったのが、ロンドン映画祭で優秀賞を獲得した、中国アニメ界の開祖"万兄弟"の長男万籟鳴 による『大鬧天宮』(2部作、1964年)である。 1956年から1957年、また1960年代初期の検閲の緩和により、中国固有の映画が制作されるようになり、ソビエトからの脱却の動きが見られた。この時代の代表的な映画制作者は、『紅色娘子軍』(1964年)、『舞台の姉妹(舞台姉妹)』(1965年)の謝晋がいる。
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