第二の開拓者
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1587年、ローリーは新たに117人の植民者遠征隊を派遣した。この隊を指揮したジョン・ホワイトは芸術家でローリーの友人であり、先のロアノーク島への遠征にも同行していた。 開拓者集団は1587年7月22日にロアノーク島に上陸した。8月18日、ホワイトの娘エレノアがアメリカ大陸では初となるイングランド人の赤ん坊ヴァージニア・デアを出産した。この出産のまえにホワイトは近隣にいるクロアタン族との関係を再構築し、前年ラルフ・レーンが攻撃した部族との関係を修復しようとした。しかし不満を感じていた部族は新しい植民者達との会見を拒んだ。それから間もなく、ジョージ・ハウという植民者が一人アルベマール・サウンド(海峡)でカニを探しているときに先住民に殺された。植民者達はラルフ・レーンが隊長を務めていたときに起こった事を知って、自分たちの生命が脅かされていることを恐れ、ホワイト知事にイングランドへ戻り植民地の事情を説明し援助を求めるよう説得した。ホワイトがイングランドに向けて出発したとき、植民地には115人の男女植民者が残った。この中には生まれたばかりのヴァージニアも含まれていた。 ホワイトが航海した当時の大西洋横断は大変危険なものだった。水先案内人のサイモン・フェルナンデスはその船がやっとのことでイングランドに戻ったと記している。救援隊の計画が立てられたが、冬季に船を出すことを船長が拒んだために遅れた。さらにスペインの無敵艦隊が来たことで、イングランドのあらゆる戦闘可能な船舶が徴発されたため、ホワイトはロアノーク島へ帰還するに耐え得る船舶を失った。しかし、ホワイトは防衛に不要と考えられる小さな船2隻を何とか誂え、1588年春にロアノーク島に向けて出航した。この航海は人為的な事情でうまくいかなかった。2隻の船は小さくその船長たちは貪欲だった。彼らはその航海の収益を良くするために行きがけに幾隻かのスペイン船を捕獲しようとしたが、逆に彼らが捉えられて積荷が失われた。植民地に運ぶもののなくなった船長たちはイングランドに戻った。 スペインとの戦争が続いていた(英西戦争 (1585年))ために、ホワイトはその後3年間再び補給を試みることができなかった。ようやく私掠船の遠征隊に乗って、カリブ海からの帰り道にロアノーク島沖に立ち寄る約束を取り付けた。ホワイトはその孫娘の3歳の誕生日である1590年8月18日にロアノーク島に上陸したが、開拓地は荒廃していた。その隊員たちも男90人、女17人、子供11人の植民者達の形跡を見つけられず、戦闘が行われたような兆候も無かった。数少ない手がかりといえば、砦の柱に彫られた「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近くの木に彫り付けられた「クロ(CRO)」という言葉だった。家屋や防御工作物は全て解体されており、出発が急いで行われたのではないことが示されていた。ホワイトは3年前に出発するとき、何かことが起こった場合、近くの木にマルタ十字を彫るよう指示していたが、それは植民者達が強制されて出発したことを意味していた。十字架が彫られていなかったため、ホワイトは彫られた文字は植民者達がクロアトアン島に移動したことを意味していると解釈したが、彼は探索することが出来なかった。猛烈な嵐が起こりつつあり、隊員はそれ以上の探索を拒み、翌日彼らはその地を離れた。
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