第二の開拓者とは? わかりやすく解説

第二の開拓者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/20 05:37 UTC 版)

ロアノーク植民地」の記事における「第二の開拓者」の解説

1587年ローリー新たに117人の植民者遠征隊を派遣した。この隊を指揮したジョン・ホワイト芸術家ローリー友人であり、先のロアノーク島への遠征にも同行していた。 開拓者集団1587年7月22日ロアノーク島上陸した8月18日ホワイトの娘エレノアアメリカ大陸では初となるイングランド人赤ん坊ヴァージニア・デア出産した。この出産のまえにホワイト近隣にいるクロアタン族との関係を再構築し、前年ラルフ・レーンが攻撃した部族との関係を修復しようとした。しかし不満を感じていた部族新し植民者達との会見拒んだ。それから間もなくジョージ・ハウという植民者一人アルベマール・サウンド(海峡)でカニ探しているときに先住民殺された。植民者達はラルフ・レーンが隊長務めていたときに起こった事を知って自分たちの生命脅かされていることを恐れホワイト知事イングランドへ戻り植民地事情説明し援助求めるよう説得したホワイトイングランド向けて出発したとき、植民地には115人の男女植民者残ったこの中には生まれたばかりのヴァージニア含まれていた。 ホワイト航海した当時大西洋横断は大変危険なのだった水先案内人のサイモン・フェルナンデスはその船がやっとのことでイングランド戻った記している。救援隊計画立てられたが、冬季に船を出すことを船長拒んだために遅れた。さらにスペイン無敵艦隊が来たことで、イングランドあらゆる戦闘可能な船舶徴発されたため、ホワイトロアノーク島帰還する耐え得る船舶失った。しかし、ホワイト防衛不要考えられる小さな船2隻を何とか誂え1588年春にロアノーク島向けて出航した。この航海人為的な事情うまくいかなかった。2隻の船は小さくその船長たちは貪欲だった。彼らはその航海収益良くするために行きがけに幾隻かのスペイン船を捕獲しようとしたが、逆に彼らが捉えられ積荷失われた植民地に運ぶもののなくなった船長たちはイングランド戻ったスペインとの戦争続いていた(英西戦争 (1585年))ために、ホワイトその後3年間再び補給試みることができなかった。ようやく私掠船遠征隊に乗ってカリブ海からの帰り道ロアノーク島沖に立ち寄る約束取り付けたホワイトはその孫娘3歳誕生日である1590年8月18日ロアノーク島上陸したが、開拓地荒廃していた。その隊員たちも男90人、女17人、子供11人の植民者達の形跡を見つけられず、戦闘が行われたような兆候無かった数少ない手がかりといえば、砦の彫られた「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近く木に彫り付けられた「クロ(CRO)」という言葉だった。家屋防御工作物全て解体されており、出発急いで行われたのではないことが示されていた。ホワイト3年前出発するとき、何かことが起こった場合近く木にマルタ十字を彫るよう指示していたが、それは植民者達が強制され出発したことを意味していた。十字架彫られていなかったため、ホワイト彫られ文字植民者達がクロアトアン島に移動したことを意味していると解釈したが、彼は探索することが出来なかった。猛烈な嵐が起こりつつあり、隊員それ以上探索拒み翌日彼らはその地を離れた

※この「第二の開拓者」の解説は、「ロアノーク植民地」の解説の一部です。
「第二の開拓者」を含む「ロアノーク植民地」の記事については、「ロアノーク植民地」の概要を参照ください。

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