郵便輸送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:30 UTC 版)
地域間の対立が合衆国を分裂させていた時期、駅馬車はミシシッピ川沿いのアメリカ合衆国中西部にあるミズーリ州セントルイスと、西部のカリフォルニア州サンフランシスコの間を結ぶ定期交通手段となっていた。よく、ポニー・エクスプレスが初めて北アメリカ大陸を横断して太平洋岸へ高速に郵便物を輸送するようになったと誤って伝えられているが、実際にはジャッカス・メールと呼ばれるサンアントニオ-サンディエゴ間の駅馬車路線が先であった。このうち最後のユマ砦(英語版)からサンディエゴに至る180マイルは、駅馬車ではなくラバの背に荷物を積んで運んでいた。このジャッカス・メールは2か月に1回の割合で、テキサス州サンアントニオとカリフォルニア州サンディエゴの間の1,500マイルを、1857年7月9日から1858年12月まで結んでいた。またジョージ・チョーペニング(英語版)によるバッターフィールド・オーバーランド・メールもポニー・エクスプレスより3年ほど早かった。 バッターフィールド・オーバーランド・メールは1858年9月15日から、週に2回の郵便輸送を開始した。バッターフィールド・オーバーランド・コンコードの駅馬車はサンフランシスコから、また別の大陸横断ステージはより良い道を使ってティプトン(英語版)から出発していた。道が悪くなるにつれて、旅客と郵便物はより悪路向けに設計された「迅速馬車」と呼ばれる馬車に乗り移った。走行距離は2,812マイルで、郵便物輸送に対して政府が対価として保証していた60万ドルを得るには25日以内で走破する必要があった。 1860年3月、ジョン・バッターフィールドは債務のためにこの業務を撤退せざるを得なくなった。南北戦争の開始に伴い、駅馬車運行会社はオックスボウ・ルートの使用の中止に追い込まれ、代わりにセントラル・オーバーランド・ルート(英語版)の使用を開始した。このルートの東側、セントルイスからコロラド州デンバーまではベン・ホラデイにより引き継がれた。ホラデイは勤勉で進取の気性に富んだ特徴のある人物で、駅馬車王として知られるようになった。デンバーからサンフランシスコまでの西側の区間では、バッターフィールドの負う莫大な債務のために、事業はウェルズ・ファーゴに引き継がれた。ウェルズ・ファーゴは、膨大な数の中継ステーション、砦、馬、人員、馬車を抱えて1866年までに長距離駅馬車・郵便輸送における独占を確立した。大陸横断の駅馬車は、1869年に大陸横断鉄道が完成したことで終焉を迎えることになった。
※この「郵便輸送」の解説は、「駅馬車」の解説の一部です。
「郵便輸送」を含む「駅馬車」の記事については、「駅馬車」の概要を参照ください。
- 郵便輸送のページへのリンク