株式会社設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 13:38 UTC 版)
今後の資金調達強化のため、1896年(明治29年)10月15日に株式会社川崎造船所が設立された。正蔵の息子3人は既に亡くなっており、養子の4男はまだ10歳だったので後継者として松方正義の3男松方幸次郎が初代社長となった。社長となった松方は積極的に設備投資をし、念願の乾ドックが1902年(明治35年)に完成した。同年から新船台の建設にも着手し1905年(明治38年)に第一船台が完成。その後も新船台の建設を継続し、設備を拡張した。第4船台上のガントリークレーンは1912年(明治45年)に竣工している。1937年(昭和12年)までに8つの船台を設置、うち第6船台は1941年(昭和16年)に撤去され、1945年(昭和20年)の終戦時で7台の船台があった。 また松方は海外からの技術導入も積極的に進め、実用化の始まった船舶用タービンでは1907年(明治40年)インターナショナル・カーチス・マリン・タービン社 (International Curtis Marine Turbine Co.) と特許についての契約を結び、カーチス式タービンの製造を始めた。また1911年(明治44年)にはイギリスのジョン・ブラウン社 (John Brown Co.) と技術提携しブラウン・カーチス式タービンを製造した。更に同年、ドイツ・MAN社と特許契約を結びディーゼルエンジンを製造した。その他大正の初めまでに合わせて17件の海外特許と契約を結んだ。 個人経営の時代は、日本海軍向けには木造敷設艇6隻を建造しただけだった。株式会社設立以降、艦艇建造は本格化し、1899年(明治32年)の水雷艇建造から始まり駆逐艦などを建造した。潜水艦建造も早くから手がけ、1906年(明治39年)に日本初の国産潜水艦(第六潜水艇)を建造している。その後も艦艇建造を続け、太平洋戦争開始時には空母を建造するまでになった。ちなみに終戦までに戦艦・空母を建造した国内の民間造船所は、ここと三菱重工業長崎造船所の2か所しかなかった(空母の船体のみの建造は他に2か所あった)。また潜水艦を建造した国内の民間造船所もここと三菱重工業神戸造船所、太平洋戦争中に建造を手がけた三井造船玉野造船所の3か所だけだった。 また商船建造も順調に受注した。第一次世界大戦時には大福丸型貨物船をストックボートとして75隻も建造し、大きな利益を上げた。
※この「株式会社設立」の解説は、「川崎造船所」の解説の一部です。
「株式会社設立」を含む「川崎造船所」の記事については、「川崎造船所」の概要を参照ください。
- 株式会社設立のページへのリンク