艦艇建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:40 UTC 版)
石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。 艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。 また1924年(大正13年)に国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」、「飛鸞丸」を竣工させた。両船の就航後の成績は良好で、その後も多くの青函連絡船を浦賀で建造することとなった。
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