株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)
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「虫プロダクション」の記事における「株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)」の解説
株式会社虫プロダクション(通称: 虫プロ)は、1961年(昭和36年)6月に手塚治虫が創設したアニメーション専門のプロダクションである「手塚治虫プロダクション動画部」が1962年(昭和37年)1月に改称したものである。 1961年(昭和36年)、手塚治虫プロダクション動画部を設立。手塚はこれ以前に、東映動画嘱託としてアニメ制作に携わったことがあり、その経験と人脈を生かしてプロダクションを立ち上げた。1962年(昭和37年)1月、株式会社虫プロダクションとして正式に発足した。名称の"虫"には「漫画の虫」「アニメの虫」「無死(不死身)」の意味が込められた。 1962年11月5日に第1作である短編(38分, カラー、ワイド)のアニメーション映画『ある街角の物語』及び『鉄腕アトム』第1話(モノクロ)ほか1作を公開。同年12月、株式会社として法人登記。翌1963年1月1日、日本初の30分放送枠用の連続テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を、1965年に日本初のカラーの本格的連続テレビアニメ番組『ジャングル大帝』などの多くのアニメ作品を制作し(その後にも「どろろ」などのモノクロ作品も制作)、従業員数も最盛期には400人を数える日本有数のアニメーションスタジオになった。テレビ向け作品の多くはフジテレビで放送された。 1966年7月、社内の版権部、出版部、営業部を分離独立させる形で子会社に虫プロ商事を発足させ、同時に虫プロ本体の債務を移転した。 詳細は「#虫プロ商事」を参照 『鉄腕アトム』の放送実現を機に萬年社を退職して1963年(昭和38年)に虫プロの常務に就任し、経営の舵取りを担い社内改革を進めた常務の穴見薫が1966年(昭和41年)12月に突然死する。これを機に経営は迷走していく。その死の直後、穴見が独断でフジテレビから1億3千万円の融資を受ける代償として、虫プロの全作品の権利がフジテレビに譲渡される契約をしていたことが発覚。虫プロがフジテレビとの交渉により、1978年(昭和53年)まで10年間の放映権をフジテレビが占有することを条件に権利が取り戻された。 初期には手塚原作の作品のみを制作していたが、『アニマル1』『さすらいの太陽』『国松さまのお通りだい』『あしたのジョー』など手塚作品ではない漫画のアニメ化も行った。手塚治虫原作作品が2年間なかった状態に陥ったのは、手塚作品が受けなくなったというテレビ局側の判断が第一だが、虫プロ内部の事情もあった。多忙な手塚の決裁を仰ぐ困難や、手塚からリテイクの要求が出てスケジュールが遅延しコストがかさんだり、番組の放送に穴が開いて代わりに過去のエピソードのリピート放送で埋めるなどの原因となったことが、手塚を制作に加えないようにし、また手塚原作を用いた作品を作らなくなった理由の一つと言われる。いずれにせよ『0マン』『ノーマン』など手塚作品のパイロット版を制作してもテレビ局が採用しないとなれば、虫プロを企業として維持していくためには非手塚原作作品をやらざるを得ない状態だった。 1971年(昭和46年)6月、手塚が今後の虫プロの方針として、「初心どおりに作家集団として進めるか、利益追求そのものを目的とする企業体とするか」を問いかけ、繰り返し社員総会を開催。話し合いの結果、大多数の社員が川畑栄一部長を中心とした利益追求の企業体制を固めることで結論が出る。これに失望した手塚がそれまでの赤字を負担する条件で社長を辞任し、同調して退社する人材も相次いだ。社長には川畑が就任し、資本金を200万円から1,000万円に増額、労働組合も結成された。 テレビアニメ制作プロダクションが多く設立されると他プロダクションとの受注競争となり、これに敗れる形でテレビ局からの受注が減少し、人件費の高騰もあり、次第に資金繰りが悪化する。子会社の虫プロ商事の経営悪化と労働争議も、金融機関が虫プロ本体に警戒を抱く原因となった。劇場用作品『哀しみのベラドンナ』の興行的な失敗もあり、短期間のうちに資金繰りが極端に悪化した。1973年(昭和48年)8月22日に子会社の虫プロ商事が約4,000万円の負債を抱えて倒産。この後、銀行などからの融資が引き上げられたことが倒産の直接のきっかけとされるが、実際には、子会社の倒産を回避できないほどに虫プロ本体の経営状態も悪化していた。同時点で同年9月に放映が終了する『ワンサくん』以後の制作作品の目途は立っておらず、既に虫プロ本体の倒産は免れない状態となっていた。そして、虫プロは『ワンサくん』放映終了直後の同年11月5日に3億5千万円の負債を抱えて倒産する。 前述のとおり、手塚原作作品の制作割合が少なくなってきた1971年(昭和46年)、手塚はそれまでの債務をすべて個人で引き受けることを条件に社長を退任している。手塚が本社の社長を退任した後、虫プロ倒産までは制作畑の川畑栄一が虫プロの経営を担っており、倒産時の社長は川畑であった。この倒産から新社設立までの間に、多くのスタッフは他のスタジオへと移籍していった。 倒産直前の1972年12月には、鉄腕アトムのイラストを「マスコットキャラクターとして限定的に使用する」ことで手塚および虫プロと合意していたプロ野球球団・ヤクルトアトムズにおいて、球団後援会が作成したグッズでアトムのイラストを使用したことが「正規に虫プロと版権契約しているグッズ販売業者の権利侵害」として問題になり、改めて球団との間でグッズ販売契約の話し合いを行うもまとまらなかった。このため、球団は手塚と虫プロに謝意を示した上で、1973年1月から新ニックネームの検討に入った。5月には一度「ジャガース」が内定し、後半戦からの変更を発表したが、結局シーズン中の変更は見送りとなった。シーズン終了後には、ニックネームも「ジャガース」を撤回して「ヤクルトスワローズ」に名称変更することを倒産直前の10月26日に発表した。
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