大正以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:32 UTC 版)
大正元年(1912年)京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)教授を委嘱され、大正2年には早くも文展の審査員に挙げられる。同年、衣笠村に建設した邸宅に移り住む(後述)。竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ華々しく注目される作家となったが、それ以後は師景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはなかった。ただ、、絵の依頼は引きも切らず、制作数も多かったようだ。 昭和に入ると平明な筆意の作風となり、帝展にも変わらず出品を重ねる。昭和8年(1933年)の第一四回帝展に「峡中の秋」を最後に衣笠村に隠棲する。祇園などに遊びに行かず、野人とあだ名されるほど粗末な服を着て、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の生活を送った。しかし、徐々に精神を病み、昭和13年11月3日枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げた。享年62。墓所は等持院(非公開)。 弟子に、西村柳塢、今井松窓、榊原虹泉、熊谷雲裳、前川秋帆、由井漱泉、池田瑞月、池田翠雲、竹中椅堂、小林雨郊、野崎三湖、浜孤嘯などがいる。
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