社長就任とフライヤーズ売却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)
「岡田茂 (東映)」の記事における「社長就任とフライヤーズ売却」の解説
東急社長五島昇により「ウチ(東急)で映画の製作をやらせてやる」と社長を請われたことがあるが、岡田は固辞している(1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している)。高岩淡の話では、1968年に岡田は俊藤浩滋、今田智憲の3人で東映を退社し、電通と組んで独立会社を作るという案を練っていたが、この年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、現場のトップや監督、役者などがみな、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと発言したために退社の話はなくなったのだろう、と述べている。 1971年当時、大川の息子・毅は、ボウリングクラブ、タクシー、ホテルなど、映画以外の事業本部長であったが、うまくいかなくなるにつれ労働組合が騒ぎ始めた。当時は一株株主というのが流行っていて、毅にプレッシャーをかけていた。1971年4月の株主総会が近づいてきたとき、岡田は毅に「組合の問題は全部私が処理するから、あなたはどこかへ引っ込んでいてくれ。どこかに行ってる間に解決するから」と伝えた。当時一番の目玉企画だった『網走番外地シリーズ』が控えており、東撮の組合がその製作を辞めると言い出した。当時東映の組合は強かったが岡田は「やるならやってみろ。でも今、会社を潰したってしょうがないぜ」と強気で当たった。しかしどうにも埒があかず手がない。京撮は活動屋の巣でもあり、岡田の古巣、かつ直属の部下である高岩淡を中心に岡田に忠実であったため、岡田が最終的に繰り出した戦法は『網走番外地』を京撮で作ることで手を打ちロックアウトをかけた。当時はロックアウト自体どういうことか誰も知らず、給料ストップらしいということが効き目になった。団体交渉で「条件を呑んでくれれば、払わないわけにもいくまい」と伝え紛争は解決した。全部が終わったのは総会の前日だった。大川博社長から初めて「ありがとう」と言ってもらったが、その直後に大川は体調を崩してそのまま逝去した。 大川社長の逝去で、後任社長には岡田・坪井与・俊籐浩滋・片岡千恵蔵らの名前が挙がったが、才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという。 社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時通産大臣だった田中角栄を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた。「お断りします。それは住友ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて五島昇の所に行ったところ「三菱にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行頭取の伊部恭之助に会うと慌てて「それは違う。堀田庄三さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった。 1972年秋、経営窮状の西鉄ライオンズ、東映フライヤーズ両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げてパ・リーグは崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄をロッテ・オーナー中村長芳が太平洋クラブの支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌1973年1月、PR効果だけが目的と思われる不動産会社・日拓ホームにフライヤーズを売り飛ばした。日拓への売却の経緯は「今里広記を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝(西村拓郎の父)に球団経営を勧めたもの。売却額は8億円と書かれたものが多いが、岡田は自伝で3億円と書いている。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた。 1973年の東映は『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など「実録路線」の大ヒットで年間配收73億8000万円と創立以来2番目の記録を更新、他の追随を許さない好業績を挙げたが、翌1974年早くも停滞ムードが漂う。岡田は社長就任以降、企画も若手グループにまかせ、あまり介入しなかったが、同年4月の映画企画製作委員会の席上、①19歳以下を掴まえること、②セリング・ポイント(セールスポイント)は1ツであること、③世界の企画動向に注目せよ、④出来上がりの面白いこと、という"製作の4原則"なるものを打ち出し、"今日からオレがOKしなきゃ撮らせない"とハッキリ介入宣言を出した。翌1975年には映画事業部長を兼任して陣頭指揮にあたり、全作品をプロデュースした。岡田の映画事業部長兼任はその後も10数年続く。1983年から1984年にかけての映画は企画を見て製作するか否か即決、全面的に岡田が仕立てたラインアップだという。岡田が社長に就任してからは、東映は岡田の独裁国家となった。企画を提出する際には、岡田の諒解さえ取れば、あとは何をしようと営業も宣伝も文句は言わない。但し岡田は岩盤のように頑固で、日下部五朗が自身がファンだった岡本喜八監督で映画を撮りたいと、岡田に何度も企画を持って行くが、「あかん!八の字のつく奴は使わん!」と意味不明の理由で、遂に企画が通ることはなかったという。 東映グループは月1回、銀座の本社8階会議室で全体会議があり、日本中から、本社の部長以上、映画館の館主、支社長、関連会社社長等、50人くらいを集め、岡田が案件を1件ずつ見ては「儲けが悪いな」「赤字ばっかりじゃないか」等、指摘する。この全体会議は遅れると入れてもらえず、1979年当時、東映テレビ企画営業第二部部長だった平山亨は遅れて、後で岡田に『お前なんか辞めちまえ』と言われた。会議に出るのが嫌になり役付けを部長代理にしてもらったら、その後岡田に「おう、平山。大丈夫か、体の方は」と言われた。岡田には「平山は病気」ということで報告が行っていたという。
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