中興の祖・行能
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 05:38 UTC 版)
書道は平安時代中期まで全盛を極めたが、平安時代末期から鎌倉時代にかけて貴族階級の没落にともなって甚だしく衰微し、和様書は分派してさまざまな書流を形成した。特にこの時期から武士が台頭しはじめ、天下の気風は一時に変わり、惰弱・優美なものから、質実・剛健なものになった。その勇猛な気質は文化面にも及び、上代様(完成者は行成)の端正優美な書風に力強さを加えた関白・藤原忠通の書は法性寺流と呼ばれ、脚光を浴びるようになった。 法性寺流の尊重により世尊寺流は沈淪していたが、世尊寺家・中興の祖といわれる第8代・行能が世尊寺流の名誉を恢復した。行能は当時、屈指の能書であり、藤原定家の『明月記』に、「当時能書の人々」(5人)の一人として謳われている。また、当時の人が、「行成卿八代の後をさづく、王羲之七代の孫(智永)に似たり、わが朝の伯英(張芝)といふべし。」と評している。 行能は先祖・行成が自邸を改築して「世尊寺」と称したことに因んで、それを自家の家名とした。このことから、後世、書流名として呼ばれるようになった。また、行能は、書論『夜鶴書札抄』の著者としても知られ、第6代・伊行の書論『夜鶴庭訓抄』を根底に置いて独自の書論を遺している。
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