明月記〈自筆本/治承四年・五年記〉
主名称: | 明月記〈自筆本/治承四年・五年記〉 |
指定番号: | 41 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1978.06.15(昭和53.06.15) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 藤原定家の日記明月記の自筆原本である。本文は首を欠し、治承四年二月五日条の途中より存して同五年十二月十九日に至り、治承五年記の首には「治承五年具注暦日 辛丑歳」の標記がある。本文の体裁は整然とした趣があり、具注暦に記された日次の日録を定家が後半に至って整理した清書本と認められる。現存する明月記の冒頭部分に当り、歴史上価値が高い。 |
明月記〈自筆本/寛喜二年秋〉
主名称: | 明月記〈自筆本/寛喜二年秋〉 |
指定番号: | 489 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1956.06.28(昭和31.06.28) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
明月記〈自筆本/安貞元年秋〉
主名称: | 明月記〈自筆本/安貞元年秋〉 |
指定番号: | 613 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1956.06.28(昭和31.06.28) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
明月記〈自筆本/嘉禄三年春〉
主名称: | 明月記〈自筆本/嘉禄三年春〉 |
指定番号: | 619 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1958.02.08(昭和33.02.08) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
明月記〈自筆本/天福元年六月記〉
主名称: | 明月記〈自筆本/天福元年六月記〉 |
指定番号: | 47 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1979.06.06(昭和54.06.06) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | いずれも藤原定家の日記、明月記の自筆清書本である。天福元年六月記は、定家が前権中納言、正二位、七十二歳の時の日記で、現存明月記中の最晩年の記に属する。本文は首に「六月〈小/〉」と掲げ、記事は一日条より二十九日条に至る。嘉禄二年八月記は、定家が前参議であった六十五歳の時の日記で、八月一日条より二十九日条に至る一ヶ月の記事を収める。ともに鎌倉時代の根本史料として価値が高く、かつ定家平生の筆跡を伝えている。 |
明月記〈自筆本/嘉禄二年八月記〉
主名称: | 明月記〈自筆本/嘉禄二年八月記〉 |
指定番号: | 52 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1979.06.06(昭和54.06.06) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | いずれも藤原定家の日記、明月記の自筆清書本である。天福元年六月記は、定家が前権中納言、正二位、七十二歳の時の日記で、現存明月記中の最晩年の記に属する。本文は首に「六月〈小/〉」と掲げ、記事は一日条より二十九日条に至る。嘉禄二年八月記は、定家が前参議であった六十五歳の時の日記で、八月一日条より二十九日条に至る一ヶ月の記事を収める。ともに鎌倉時代の根本史料として価値が高く、かつ定家平生の筆跡を伝えている。 |
明月記〈自筆本/〉
主名称: | 明月記〈自筆本/〉 |
指定番号: | 57 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 2000.06.27(平成12.06.27) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 58巻、1幅 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 冷泉家に伝来した藤原定家の日記『明月記』の原本で、日次記五六巻、一幅、本記の抄出記【しゅうしゅつき】と思われる建久九年十二月十日臨時祭記一巻、および年未詳断簡一巻からなる。 『明月記』は、源平の争乱から承久の乱後に至る変動期の宮廷・公家社会の実相や武家の動静をはじめ、自らの文学活動や所感などを記した鎌倉時代前期研究の第一級史料である。その執筆年代は、治承年間(一一七七-八〇年)から八〇歳で薨じた仁治二年(一二四一)に及ぶと伝えられている。 このうち冷泉家時雨亭文庫所蔵の日次記は、建久三年(一一九二)三月から天福元年(一二三三)十月に至る間を、途中断絶しながら凡そ二五年分を存している。各巻はほぼ三か月ごとの季別に成巻【せいかん】されている。新たに見出された掛幅【かけふく】は、正治二年十月廿七日条の断簡で、定家の正四位下の叙位に関わる記事である。 本文料紙は楮紙打紙を用い、記事は日付に次いで書かれている。いずれも定家が自ら整理した清書本で、文中には、定家による加筆や墨抹消訂正などが少なくない。なかには、定家の指揮監督下に側近の者たちによって書写されたものも含まれている。 紙背文書【しはいもんじょ】は計三四巻にあり、その通数は凡そ六百通である。昭和五十七年に重要文化財に指定され、同六十三年より一二か年をかけて修理が行われ、紙背文書が解読できるようになった。ほとんどが書状で、定家宛が多く、『明月記』本文を補完する重要な資料である。今回、修理完成とともに国宝に指定された。 附の補写本建仁三年(一二〇三)十二月記は、江戸時代中期の写本で、原本と一具として伝わった。旧表紙一巻は一〇巻分の旧表紙からなる。ともに往時の伝来が知られる資料である。 |
明月記〈正治二年秋/自筆本〉
主名称: | 明月記〈正治二年秋/自筆本〉 |
指定番号: | 81 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1982.06.05(昭和57.06.05) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 藤原定家が従四位上、左近衛権少将兼安芸権介、三十九才の時の日記で、正治二年(一二〇〇)秋七月一日より九月卅日までの記事を収める。正治二年記は現存する定家自筆本のなかでも初期に当たる。体裁は巻子装で、表紙は紺紙後補表紙、「正治二年秋」と朱筆外題があり、首に厚手楮紙の旧表紙が貼付され、定家筆と思われる「正治二年秋」の墨書外題がある。料紙は無界の楮紙で、本文は首の「正治二年」という定家筆の年紀標記から始まる。また、文中には定家自筆の墨訂正、加筆がまま見られ、後筆の墨首付を付している。本文の記事は政治史、歌道史の上で重要な事実を含み貴重である。 |
明月記〈建久十年春/自筆本〉
主名称: | 明月記〈建久十年春/自筆本〉 |
指定番号: | 85 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1983.06.06(昭和58.06.06) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 藤原定家が従四位上右近衛権少将兼安芸権介であった三十八歳の時の日記の自筆清書本で、建久十年(一一九九)春正月一日から三月二十九日までの記事を収めている。本文の書風は定家晩年の筆跡で、後筆の墨首付のほかは訂正・加筆はほとんど見られず、清書本の中でも整った姿を伝えている。 記事中には、源頼朝の死とその後の朝廷・武家の政治的動向を伝える記載がみえ、また二月の春日祭に定家が祭使を勤めた際の次第を詳述した「春日祭使勤仕記」など注目すべき内容が多く含まれている。 |
明月記〈定家自筆本/天福元年七月、八月〉
主名称: | 明月記〈定家自筆本/天福元年七月、八月〉 |
指定番号: | 270 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.07.19(昭和27.07.19) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
明月記〈自筆本/正治元年四、五月〉
主名称: | 明月記〈自筆本/正治元年四、五月〉 |
指定番号: | 294 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1959.06.27(昭和34.06.27) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
明月記〈自筆本/寛喜二年正月〉
主名称: | 明月記〈自筆本/寛喜二年正月〉 |
指定番号: | 327 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1958.02.08(昭和33.02.08) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
明月記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/12 07:08 UTC 版)
『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名:『照光記』、『定家卿記』。
注釈
- ^ 五味文彦は『花園天皇宸記』正中2年12月30日(1326年2月3日)条に「定家卿記」を読んだ事を記していることや『園太暦』貞和2年閏9月6日(1346年10月21日)条に「定家卿記」からの引用があることから、この時期に広く読まれたと説く。一方、松薗斉は反対に当時広く読まれた日記であればもっと多くの公家の記録や日記などに先例として引用されている筈であると指摘し、むしろ引用例の少なさが『明月記』が秘蔵されて一部の人の目にしか触れていなかったことを示すとしている。
- ^ 1932年に自費出版の小冊子で配布され[3]、1934年から1939年にかけ5編に分けて影響力のある雑誌『ポピュラー・アストロノミー』に掲載された[4]。
- ^ 当時の陰陽師は「彗星」と「客星」を別のものと考えていた[6]。現代でいう彗星が、「彗星」「客星」のいずれかに判定されることとなる[6]。
- ^ この年から翌年は、記録的な飢饉(寛喜の飢饉)の最中であった[5]。
- ^ 『明月記』の原本では、客星出現リストは定家の筆によるものではなく、陰陽寮の官人によるものである[8]。定家は自身の日記を書いた紙の間に、泰俊から提出された報告書を挟み込んで紙を継いだことになる(原本は冊子形態ではなく巻物形態である)[8]。
- ^ なお、この時の連夜の赤気については仁和寺の法親王の記録『御室相承記』にも記載がある[10]。
出典
- ^ a b c 臼井正 2009, p. 13.
- ^ 竹本修三 2015, p. 429.
- ^ a b 竹本修三 2015, p. 431.
- ^ 竹本修三 2015, pp. 431, 434.
- ^ a b c d 臼井正 2009, p. 11.
- ^ a b 臼井正 2009, p. 14.
- ^ 斉藤国治『定家『明月記』の天文記録 古天文学による解釈』156頁 1999年 慶友社
- ^ a b c d e f 臼井正 2009, p. 12.
- ^ 竹本修三 2011, pp. 1–2.
- ^ a b c d e f g 国立極地研究所 ほか & 2017-3-21.
- ^ 盗難の日付は『文化財保護行政ハンドブック 美術工芸品編』(文化庁美術工芸課監修、ぎょうせい刊、1998)、p128、による。
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