長秋記〈大治四年八・九月、天承元年正・二・三月/藤原定家書写〉
主名称: | 長秋記〈大治四年八・九月、天承元年正・二・三月/藤原定家書写〉 |
指定番号: | 119 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1989.06.12(平成1.06.12) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 4巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 『長秋記』は、権大納言皇后宮権大夫であった源師時の日記で、『水日記』、『権大夫記』などとも称され、現在、目録を含めて寛治元年(一〇八七)より保延二年(一一三六)までの記事が現存し、院政時代研究の重要史料として知られている。 記主の師時は、承暦元年(一〇七七)左大臣源俊房の次男として生まれ、蔵人頭、参議、権中納言等を歴任し、保延二年に六〇歳で没した。 この冷泉家本は、鎌倉時代前期に藤原定家によって書写された古写本で、(1)大治四年(一一二九)八月一日条より九月十九日条途中、および二十八日条途中より二十九日条、(2)天承元年(一一三一)正月二十七日条より二十九日条(一部欠)、(3)同二月二日条より五日条、(4)同三月二十二日条途中より二十五日条を存している。 体裁は巻子装、料紙はいずれも楮紙で、紙背に民部卿(定家)宛書状等のあるものを飜し、半截して用いている。本文は一紙三五行前後、一行一三~一九字、注双行に書写され、まま墨傍注等がある。奥書はないが、紙背文書にみえる定家の官途および、本文の筆跡等により、定家六〇歳頃の書写になるものと認められる。 このうち(1)は「大治四年八月〈大/〉」の年紀標記にはじまり、鳥羽上皇の第五皇子の御行始や、故白河法皇の供養のために行われた仏事等について詳述しており、(2)の天承元年正月二十九日条には改元定の故実に関する記載がある。(3)の二月三日~五日条は、『群書類従』本に『両院熊野御詣記』として収められているもので、三日に鳥羽上皇および待賢門院の両院が鳥羽殿において熊野御精進始を行い、四日に女院が、五日に上皇が鳥羽殿より還御した内容を伝えている。また、(4)の三月二十二日条には権大納言藤原宗忠が尚歯会を設けたことが記されている。 『長秋記』の古写本は、宮内庁書陵部本、東山御文庫本、田中本(重要美術品)が知られているが、この冷泉家本は藤原定家の書写になる古写本として貴重である。 |
長秋記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/03 14:25 UTC 版)
長秋記(ちょうしゅうき)は、源師時の日記。
書名由来
- 源師時が「皇后宮権大夫」の官位にあったことから、「皇后宮」の唐名「長秋宮」に由来する。
- 別名に「権大夫記」、名前から「師時記」、「水日記」など。
概要
- 源師時は有職故実等に明るい人物で、現在では院政期の朝儀典礼等の研究上不可欠の重要資料。
- 当初は70巻ほどあったようだが欠巻が多くあり、現在は長治2年(1105年)から保延2年(1136年)までの期間の10数巻が確認されている。
- 1134年(長承3年)1、2月の鳥羽院と待賢門院の熊野参詣に同行、参拝から京都帰洛までの詳細が記録されている。山伏の峰入の様や僧侶への供養米の配分など平安時代の神仏混淆の一端がうかがえ、参詣日程の調整など内部事情の細かな記録も多い。
参考文献
関連項目
長秋記と同じ種類の言葉
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