歿後の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 07:24 UTC 版)
定朝没後は、息子の覚助と弟子の長勢が勢力を持ち、覚助の系統から院派と慶派、長勢からは円派が生まれた。また、僧綱位の授与は、天皇や上皇の御願寺、或いは藤原氏ゆかりの法成寺、興福寺の意義深い造仏に携わった定朝直系の子弟に限定される慣習となった。 定朝様はその後12世紀に到るまで仏像の規範となった。当時の日記類を読むと、貴族達が定朝仏をもてはやし、仏師らはその注文に応じ、ひたすら定朝仏の模倣に努めていたことが伝わってくる。例えば、定朝から数えて4代目の円派仏師・賢円の工房を訪ねた貴族は、製作中の仏像を定朝仏と比較して、細かく注文をつけた。また、長承3年(1134年)、定朝から5代後の院派仏師・院朝は、定朝仏と同じ阿弥陀如来像を作るため、西院の邦恒朝臣堂へ赴き、その寸法を一日がかりで約70箇所にわたり詳細に計測している(共に『長秋記』)。
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