殉教と列福
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:14 UTC 版)
約20年間にわたりキリシタン禁教・弾圧下で潜伏して布教活動をしていた中浦神父は、1632年(寛永9年)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られて拷問により棄教を迫られたが、かたくなに拒絶した。そして翌1633年10月18日(寛永10年9月17日)、イエズス会司祭のジョアン・マテウス・アダミ、アントニオ・デ・スーザ、クリストヴァン・フェレイラ、ドミニコ会司祭のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士とともに、西坂(現・日本二十六聖人記念館付近)で穴吊るしの刑に処せられた。穴吊るしの刑では全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずにもがき苦しむという惨刑であった(一方で棄教の意思を示すことは簡単に出来たため、信徒を屈するに適した拷問だった)。クリストヴァン・フェレイラが棄教し、ほかの受刑者は棄教せずにすべて殉教した。最初に死亡したのは中浦ジュリアンで、穴吊るしにされて4日目の10月21日(寛永10年9月19日)であった。65歳没。役人に対し毅然として「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と言い残したとされ、最期の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」だったという。 殉教から374年が経過した2007年(平成19年)6月、ローマ教皇ベネディクト16世は、中浦ジュリアンを福者に列することを発表し、2008年(平成20年)11月24日に長崎で他の187人と共に列福式が行われた。天正遣欧少年使節の一員で福者になるのは彼が初めてである。
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