殉教千里行
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1933年6月、江川は「殉教千里行」を行うと青年党員に発表した。鶴岡八幡宮に祈願したのち、全国を説法して回るというものである。決行の日は7月2日。翌3日に鎌倉で江川と合流し、総勢28名で行脚を行うことが決められた。 参加する党員は家族に別れを告げ、会社勤めをしていた者は職を辞してこれに臨んだ。江川によれば、それは「永遠に目的はなく生還も期さない旅」であった。しかしこの旅は永遠どころか、当日のわずか一日で頓挫する。 午前10時、横浜市の杉田梅林(現在の磯子区杉田)に集合した青年党員らは、鎌倉へ向かって行進を始めた。白い羽織に黒い袴、樫棒を持ち鉢巻を頭に巻いた集団が、太鼓を叩いたり口々に「死のう」と叫んだりしながら練り歩くさまを、人々は奇妙に思いながら見ていた。やがて、党員らを尾行する影が現れた。通報を受けた私服警官である。 その夜、逗子市の桜山で野宿をすることにした彼らを警官隊が襲った。拘束された党員らは、2台のバスに乗せられ葉山署に連行されたが、当初は「何も悪いことはしていないのだから、すぐ釈放される」と考え、取り立てて深刻には受け止めていなかった。
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