狼藉と処罰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:01 UTC 版)
為義が昇進できなかった最大の原因は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為だった。以下に記録に残る事例を列記する。 永久2年(1114年)5月、源行遠の郎党を殺害した犯人を匿う(『中右記』5月13日条)。 5月、尊勝寺領信濃荘の年貢強奪事件で、源光国が犯人を捕らえて押収物を検非違使庁の源重時に引き渡すが、重時の郎党・公正がその多くを奪って逃走する。為義は公正を匿い、検非違使庁の再三の督促を無視(『中右記』5月16日条)。 8月、九条太政大臣(藤原信長)の後家が、下野国の家領を管理する為義郎党の追却を訴える(『中右記』8月3日条)。 8月、国衙領の雑物を押し取ったとして、上野国司が為義郎党の家綱を検非違使庁に告発。為義は自分の郎党ではないと主張して、叔父の源義国と争論に及ぶ(『中右記』8月16日条)。 大治4年(1129年)正月、殺人を犯した源光信の郎党が赦免された際に、奪い取って自らの郎党にしようと図り、光信と合戦寸前になる(『中右記』正月7日条)。 11月、興福寺衆徒による仏師長円暴行事件で、犯人追捕のため他の検非違使と共に南都(奈良)に派遣されるが、逆に首謀者の悪僧・信実を匿って鳥羽上皇から勘当される(『長秋記』11月17日条)。 大治5年(1130年)5月、延暦寺の悪僧追捕の際、郎党が誤って前紀伊守・藤原季輔(鳥羽上皇の生母・藤原苡子の甥)に暴行を加えたことで、検非違使別当・三条実行により勘事に処される。源師時は「為義の作法、児戯の如し」と評す(『長秋記』5月14日条)。 長承2年(1133年)9月、為義の郎党が丹波国に赴いて多くの人々を殺害(『長秋記』9月15日条)。 為義本人については犯罪者の隠匿、他の同僚との軋轢、郎党については粗暴な振る舞いが目に付く。保延元年(1135年)4月、西海の海賊追討に際して忠盛と共に候補に挙がるが、鳥羽上皇は「為義を遣わさば、路次の国々自ずから滅亡か」として強く反対した(『中右記』4月8日条)。為義郎党による追討に名を借りた略奪行為を懸念したと見られる。 保延2年(1136年)、為義は左衛門少尉を辞任する。これまでの経緯を見ると、実質的には解官に近かったと推測される。保延5年(1139年)、無官となった為義は高野山改革派で鳥羽上皇の尊崇を受けていた覚鑁に名簿を提出し、院の不快を蒙ったことを語り、伺候と任官のための祈祷を嘆願している(『平安遺文』4710、4713~4717)。 この頃、長男の義朝は東国に下向していたため、次男の源義賢が後継者の地位にあった。義賢は保延5年(1139年)に体仁親王(後の近衛天皇)が立太子すると東宮帯刀先生に任じられるが、翌保延6年(1140年)には殺人犯に協力するという失策を犯して罷免された(『古今著聞集』巻15)。
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