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平知信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 03:08 UTC 版)

 
平知信
時代 平安時代後期
生誕 不明
死没 康治3年2月19日1144年3月24日
官位 従四位上出羽守
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇
家司藤原忠実
氏族 桓武平氏高棟流(堂上平氏
父母 父:平経方、母:藤原雅信娘
兄弟 知信祐子内親王家紀伊
藤原惟信娘
時信、知範、信範
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平 知信(たいら の とものぶ)は、平安時代後期の貴族桓武平氏高棟流、春宮亮・平経方の子。官位従四位上出羽守。知信の家系はいわゆる「日記の家」に属し、知信も『平知信朝臣記』を残した。

経歴

白河院政期前期の承徳元年(1097年蔵人所雑色に補せられる。また、大学に入って文章生となり、康和4年(1102年高階宗章叙爵を受けて、雑色であった知信が後任として六位蔵人に補任された。長治2年(1105年検非違使左衛門少尉任官を経て、嘉承2年(1107年従五位下に叙せられた。

嘉承年間(1106年-1107年)頃より関白藤原忠実家司としての活動が見え始めるが、高い実務能力を買われて、その後も長きにわたって忠実家の家司として活躍した。天仁元年(1108年兵部少輔に任ぜられる。天永永久元永1110年-1119年)にかけて忠実の許で実務を熟す様子が多く記されている[1]

鳥羽院政期初頭の天承2年(1132年正五位下少納言に叙任される。保延1135年-41年)頃に出羽守として地方官も務めた。

康治2年(1143年)12月29日に重病により出家。最終官位は前出羽守従四位上。翌康治3年(1144年)2月19日卒去

官歴

系譜

  • 父:平経方
  • 母:藤原雅信の娘
  • 妻:藤原惟信の娘
  • 生母不明の子女
    • 長男:平時信(?-1149)
    • 次男:平知範(?-?)

脚注

  1. ^ 殿暦
  2. ^ a b c d e f g h 『中右記』
  3. ^ 『蔵人補任』
  4. ^ 『大間成文抄』第7上
  5. ^ 『平知信朝臣記』
  6. ^ 『宇槐雑抄』
  7. ^ 『台記』康治2年12月30日条
  8. ^ 『本朝世紀』

参考文献

  • 上杉和彦「平知信」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
  • 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年
  • 宮崎康充編『国司補任 第五』続群書類従完成会、1990年



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