豊橋鉄道とは? わかりやすく解説

豊橋鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/27 21:25 UTC 版)

名古屋鉄道 > 豊橋鉄道
豊橋鉄道株式会社
Toyohashi Railroad Co., Ltd.[1]
豊鉄ターミナルビル(本社所在地)
種類 株式会社
略称 豊鉄
本社所在地 日本の旗 日本
〒440-0888
愛知県豊橋市駅前大通一丁目46番地の1 豊鉄ターミナルビル5階
北緯34度45分45.4秒 東経137度23分1.0秒 / 北緯34.762611度 東経137.383611度 / 34.762611; 137.383611座標: 北緯34度45分45.4秒 東経137度23分1.0秒 / 北緯34.762611度 東経137.383611度 / 34.762611; 137.383611
設立 1924年(大正13年)3月17日
業種 陸運業
法人番号 4180301006600 ウィキデータを編集
事業内容 旅客鉄道事業、自動車運送事業 など
代表者
  • 代表取締役社長 松下明
資本金 1億円(2026年3月31日現在)[2]
発行済株式総数
  • 411万80株
(2026年3月31日現在)[2]
売上高
  • 連結: 76億7879万6000円
  • 単体: 24億0385万8000円
(2026年3月期)[2]
営業利益
  • 連結: 8億0497万2000円
  • 単体: 1億6842万2000円
(2026年3月期)[2]
経常利益
  • 連結: 8億0553万7000円
  • 単体: 2億5858万8000円
(2026年3月期)[2]
純利益
  • 連結: 6億1107万0000円
  • 単体: 2億0875万6000円
(2026年3月期)[2]
純資産
  • 連結: 70億5967万4000円
  • 単体: 51億5504万7000円
(2026年3月31日現在)[2]
総資産
  • 連結: 164億6940万3000円
  • 単体: 137億9599万1000円
(2026年3月31日現在)[2]
従業員数
  • 連結: 661人
  • 単体: 178人
(2026年3月31日現在)[2]
決算期 3月31日
会計監査人 有限責任あずさ監査法人[2]
主要株主 (2026年3月31日現在)[2]
主要子会社 #連結子会社参照
外部リンク https://www.toyotetsu.com/
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豊橋鉄道株式会社(とよはしてつどう、英: Toyohashi Railroad Co., Ltd.[1])は、愛知県豊橋市および田原市において鉄道、豊橋市内で軌道(路面電車)を運営する鉄道事業者。名古屋鉄道(名鉄)の連結子会社である。本社は愛知県豊橋市の豊橋駅前にある豊鉄ターミナルビルに所在。愛称・略称は豊鉄(とよてつ)。

歴史

戦前の動向

豊橋鉄道が現在の形になったのは、中部瓦斯(現在のサーラエナジー)初代社長を務めた実業家で、豊橋鉄道(豊橋電気軌道)に対しては影の実力者として影響力を行使した神野三郎の手腕による所が大きいとされる[3][4]。

豊橋電気軌道
神野三郎

豊橋電気軌道(現在の豊橋鉄道東田本線を敷設した会社)は武田賢治を発起人総代として1924年(大正13年)に設立された。この会社は、豊橋駅前と歓楽街であった東田(東田遊郭)を路面電車で結ぶことを目指したが、設立時募集株式の買い手があまりつかなかったため計画が暗礁に乗り上げそうになった。しかし遊郭経営者らの尽力によって募集株式の払込が完了した[5]。神野三郎も発起人の一人として名を連ねていた[6]。

豊橋電気軌道の初代社長には武田が就任した。しかしバスとの競合などで業績が振るわず、専務の今西卓の病死や、社長の武田が1933年(昭和8年)に辞任に追い込まれるなど経営の混乱が生じたため、神野が同社の監査役に就任した[7]。神野は同社の新社長に地元の名士で温厚な人柄で評判のあった金子丈作を推挙し、金子が2代社長に就任したが、この時以降、神野が豊橋電気軌道の経営に深く関与するようになった[8]。金子新体制のもと1935年(昭和10年)には神野の主導で軌道線と競合していたバス会社の豊橋循環自動車を買収し、バス事業にも参画したが、業績を大きく改善することはできなかった[9]。

1935年(昭和10年)には、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して現在まで続く名古屋鉄道(名鉄)が発足した。神野はこのことに着目し、新たに発足した名鉄の傘下入りによる豊橋電気軌道の経営改善を目論んだ[10]。当時の名鉄の首脳陣には神野の親族の神野金之助 (2代目)がおり、また神野三郎の実弟の水谷登免吉は名鉄社長の藍川清成の腹心の部下となっていた。神野はこうしたコネクションを積極的に利用した。また神野は地元の有力者らと共に豊橋電気軌道の発行済株式を購入してまわり、最終的に発行済株式の約50%を調達、それを事実上の名鉄系子会社の持株会社として機能していた愛知証券保有会社(知多鉄道や豊川鉄道などの筆頭株主であった)の名義とした[11]。こうした神野の尽力によって豊橋電気軌道は好条件での名鉄傘下入りを果たした。地元資本を名鉄に売り渡したとして名鉄の傘下入りに対する批判もあったが、当時の神野は「この地方が良くなることなら、甘んじて非難を受ける覚悟」であったという[12]。1938年(昭和13年)には高橋小十郎が3代社長の座に就いていたが、1939年(昭和14年)には高橋に代わって藍川清成を豊橋電気軌道の4代社長に迎えた[13]。

社長の金子丈作は好人物だけが取柄で、経営上の才能は期待できなかったから、豊橋電気軌道の業績は芳しくなかった。この会社の運営に参加したかげの実力者神野三郎は、河合牧郎や福谷藤太良とはかり、同社の株式の50パーセントを名古屋鉄道系の持株会社である「愛知証券保有会社」の社長藍川清成の手に移し、昭和十三年藍川清成は豊橋電気軌道の相談役に就任。事実上、名鉄の支配下に入ってしまったのである。(中略)

高橋小十郎は長い失意の生活から、ようやく豊橋電気軌道の社長を足掛かりに復活しようとしていた。その矢先、豊橋電気軌道は名鉄の支配下に入ったから、当然のことながら、豊橋財界は愉快ではなかった。(中略)当時、豊橋の経済人の交遊を目的とした経済クラブという会が額ビル楼上で催されていた。杉田英一郎(杉田有窓子、東海日日新聞の前身の創業者)はその会合の席上、神野三郎の非を鳴らした。神野三郎は平然として「棺桶に入るまでは悪口をいわれるものさ」などと受け流した[14]。 — 大森修『豊橋財界史』

名鉄社長の藍川は傘下に納めた鉄道会社・軌道会社(路面電車会社)を次々と吸収合併していったが、豊橋電気軌道が名鉄に吸収合併されることはなかった。小林橘川による藍川の伝記『藍川清成』では「(豊橋電気軌道の)実権は名鉄の手に移されてあったが、何故か統合から除外された」と述べられている[15]。

戦時体制下においては輸送体系の効率化のため、国策で東三河のバス会社が全て強制的に統合されることになり、1943年(昭和18年)に「豊橋乗合自動車」が発足した。豊橋電気軌道が運営していたバス路線も全て当該社に無償譲渡されることになった[16]。

戦後の動向

終戦後の1948年(昭和23年)に4代社長の藍川清成が社長在任のまま胃癌で死去すると、馬場惟保(元鉄道省官僚で新潟鉄道局長、戦時輸送体制の構築の為に1944年に名鉄の取締役に就任した人物[17])が豊橋電気軌道の5代社長の座に就いた[18][19]。

豊橋交通

終戦後の一時期は独占禁止法違反の容疑で、神野は経営から離れたが、のち経営に復帰し、1947年(昭和22年)に神野は豊橋乗合自動車の社長に就任した。神野は豊橋電気軌道との合併を主導し、東三河の交通網の一元化を目指した。両社の合併を目指した動機としては、かつての豊橋電気軌道の監査役時代に、路面電車とバスとの競合によって経営が疲弊したという苦い記憶も影響しているという[20]。1949年(昭和24年)の両社の合併に際して発足した新会社の社名は豊橋交通とした。1949年(昭和24年)の短い期間、神野は豊橋交通の社長の座にあったが、その年のうちに社長の座を馬場惟保に譲った。しかし神野はその後も長らく同社の会長、顧問の地位にあり影響力を行使した[21]。顧問時代の神野は繁忙期・閑散期のバス輸送の効率化に関心があり、自ら各バス停に赴いて乗降客数を観察したり、天気(晴天時と雨天時)による輸送量の変動を注視していたという[22]。

1954年(昭和29年)7月22日には、豊橋交通は豊橋鉄道に改称する。これは名鉄からの渥美線譲渡による、更なる飛躍を遂げる決意を込めたものであった[23]。

渥美線譲渡の打診は長らく豊橋交通側からなされていたものであった[24]。名鉄側がこの提案を受け入れた理由としては、名鉄は渥美線と豊橋交通バスとの競合を避けるため、豊橋交通による東三河の交通網の一元化を望んでいたこと、また営業成績の芳しくない渥美線を名鉄で経営し続けるよりは、中小事業者の豊橋交通が経営した方が、中小事業者ゆえに旅客運賃の値上げ申請が容易になり、採算を維持できるだろうという経営判断によるものだった[25](当時の名鉄は名古屋本線、犬山線、常滑線、津島線以外の大部分の路線は赤字で経営をひっ迫させていたという[26])。

当時の名鉄労組は、渥美線の譲渡によって豊橋交通への転属社員が生じることになるが、転属社員の給与が切り下げられる恐れがあるとして渥美線の譲渡に反発、「東三河の交通網の一元化が目的ならば、名鉄が豊橋交通を吸収合併すべき」だと労組側は提案した。しかし豊橋交通側は名鉄との合併を望む意向はないとして拒否したため、この提案が実現することはなかった[27]。また渥美線は名鉄名古屋本線との直通運転が物理的に困難であり、合併したところで鉄道輸送体系を効率化できる訳ではなかったことも合併に至らなかった要因の一つであるという[28]。なお名鉄労組の伝えるところによれば、「渥美線譲渡に関して、豊橋交通への転属希望者がいないならば、当面は渥美線運行に従事する名鉄社員を貸してほしい(すなわち名鉄社員を豊橋交通へ出向させてほしい)」との要望も豊橋交通側からなされていたという[29]。

渥美線譲渡問題は土川元夫が労組側との交渉にあたったが[30]、労組側の「豊橋鉄道へ転属しても給与の切り下げは行ってはならない」という条件を豊橋鉄道側は呑むことにした[31]。その上で、1954年(昭和29年)10月1日付で、名鉄社長の神野金之助と豊橋鉄道社長の馬場惟保との間で路線譲渡に関する協定書が交わされ[32]、渥美線は豊橋鉄道へと譲渡された。最終的には渥美線運行に従事していた社員のうち152名が名鉄から豊橋鉄道に転属することになった。しかし高給が保証された名鉄からの転属社員と、旧来からの在籍社員との賃金格差が発生し、豊鉄労組による「賃金平準化闘争」がなされたという[33]。なお法的拘束力を持つものではなかったが、田原町議会(当時)は、渥美線が豊橋鉄道に譲渡されれば、大幅な運賃の値上げが見込まれるが、そうなれば沿線住民の経済的負担が増大し、地場産業にも悪影響を及ぼすとして、渥美線の譲渡反対の決議を満場一致で採択している[34]。

1956年(昭和31年)には豊橋鉄道によって田口鉄道が吸収合併された。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)が神野没後(神野は1961年に死去)の1965年(昭和40年)に編纂・出版した『神野三郎伝』によれば、名鉄から豊橋鉄道への渥美線の譲渡や、豊橋鉄道による田口鉄道の吸収合併は、東三河の交通網の一元化を目指した豊橋鉄道顧問の神野三郎の影響があったとしている[35](渥美線譲渡時の名鉄社長神野金之助は既述の通り神野三郎の親族である)。

合併した田口鉄道(田口線)に関しては、モータリゼーションの進展による赤字の増大と鉄道設備の老朽化のため、合併からわずか8年後の1964年(昭和39年)10月21日の取締役会で廃線の方針を決定し[36]、沿線自治体など関係各署と廃線に関する協議を進めた(当時の法令では、廃線は許可制であったため豊橋鉄道側の一存で廃線にできるものではなかった)。1966年(昭和41年)には田口線の累積赤字問題のため豊橋鉄道は無配に転落した[37]。同年5月に、長年に渡って社長の座にあった馬場惟保が社長の座を退くと[38]、香高菊男(名鉄の常務取締役・施設局長[39])が新社長に就任、豊橋鉄道の重役陣も刷新され、その多くが入れ替わった。香高新体制では以前の経営陣よりも田口線廃止を進める方針をより鮮明にし[40]、1968年(昭和43年)9月1日をもって田口線は全線が廃止されることになった[41]。

豊橋鉄道は名鉄傘下ということもあり、藍川清成の社長就任以降、名鉄出身者が豊橋鉄道社長に就任するケースが多い。直近で豊橋鉄道社長に就任した伊藤優、伊藤正雄、岩ヶ谷光晴、松下明は、いずれも名鉄出身者である。

豊橋鉄道は、社名変更以前の1949年(昭和24年)から1998年(平成10年)までは、既述の通り無配に転落した1966年(昭和41年)を除き、株主に配当金を支払っていた[42][43]。しかし1999年(平成11年)以降は少子高齢化や過疎化、モータリゼーションの影響などで、黒字だが薄利という経営状態が続いており、無配が常態化している[43]。1970年(昭和45年)時点では鉄軌道事業とバス事業の収益比率は三対七で、バス事業が大きな収益源になっていたが[44]、1975年(昭和50年)以降は不採算バス路線が増加していき[45]、2007年(平成19年)にはバス事業が豊鉄バスとして分社化されることになった。

年表


鉄道・軌道事業

路線

路線図(クリックで拡大)

営業区間

鉄道線
軌道線

廃止区間

鉄道線
軌道線

車両

各路線の記事を参照。

運賃・切符

渥美線運賃表
キロ程 普通運賃(円)
1 - 2 170
3 - 4 180
5 210
6 230
7 250
8 280
9 310
10 340
11 370
12 400
13 420
14 450
15 480
16 500
17 530
18 550

本項の運賃・料金額は特記なければ2024年3月16日現在のものである[53][54][55]。

  • 渥美線の運賃は、営業キロによって運賃を計算する。営業キロの小数点以下は切り上げ。小児は半額、5円の端数は切り上げ。
  • 東田本線(豊橋市内線)では、大人200円、小児100円の均一運賃を採用している。
  • 身体障害者・知的障害者・精神障害者割引は運賃減算額欄に第1種(または1級)の記載がある障害者手帳持参者が介護者と同伴して渥美線・市内線に乗車する場合に適用される。2024年3月16日から渥美線で精神障害者割引[56]、東田本線(豊橋市内線)で身体障害者・知的障害者・精神障害者割引[57]が導入された。

入場券

  • 大人170円、小児90円。新豊橋駅・南栄駅・高師駅・大清水駅・三河田原駅で発売。

フリー切符

  • 渥美線1日フリー乗車券(大人1,200円、小児600円)
  • 市内線1日フリー乗車券(大人550円、小児280円)
  • いこまい豊橋電車・バス1日フリー乗車券(大人1,100円、小児550円)
  • 伊良湖1DAYフリーきっぷ(大人2,300円、小児1,150円)
  • 伊良湖2DAYフリーきっぷ(大人3,300円、小児1,650円)

過去のフリー切符

発売額は廃止時点のもの。

  • ワイド3・3・SUNフリーきっぷ(大人6,000円、小児3,000円。2006年3月31日廃止)
  • 穂の国ワンデーフリーきっぷ(大人1,100円、小児550円。2006年12月31日廃止)
  • ワンデーフリーきっぷ(大人650円、小児330円。2006年12月31日廃止)

ICカード

名古屋鉄道・名鉄バス・名古屋市交通局・名古屋臨海高速鉄道(あおなみ線)・名古屋ガイドウェイバスとの共通利用が可能なICカード乗車券「manaca」を、2011年2月11日に導入した[48][58]。2012年からはJR東海のTOICA、2013年3月からは全国のICカードとの相互利用を開始している。

導入区間は東田本線(豊橋市内線)全線と渥美線で、東田本線は車内運賃箱を読み取り装置付の新型に更新(T1000形は当初の運賃箱をICカード導入時に他車と同等品に交換[注釈 1])しており、渥美線には簡易改札機を設置している。渥美線内でチャージが可能な駅は新豊橋、南栄、高師、大清水、三河田原の5駅のみである。

バス事業

自動車(バス)事業を直営していたが、赤字部門のコストの削減および事業運営の迅速化による収益力強化と路線維持を図るため[59]、2007年5月22日に自動車事業の分社を目的とした豊鉄バス株式会社を設立。各所の承認を経て同年10月1日に自動車事業を移管・分社した。

グループ会社

連結子会社

2024年3月11日現在

過去のグループ会社

脚注

注釈

  1. ↑ 両替機の硬貨受け皿の形状が異なる

出典

  1. 1 2 Independent Auditor's Report, p.11, KPMG Azsa LLC, 31 July 2019
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 豊橋鉄道株式会社『第153期(自 2025年4月1日 - 至 2026年3月31日)有価証券報告書』(レポート)2026年6月26日。
  3. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.442
  4. ↑ 大森修『豊橋財界史』豊橋文化協会 1973年 p.225 - 226
  5. ↑ 豊橋市史編集委員会編『豊橋市史 第4巻 (現代編)』1987年 p.753
  6. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.436-437
  7. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.436-437
  8. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.437
  9. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.437
  10. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会編『神野三郎伝』中部瓦斯出版 1965年 p.438
  11. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.437
  12. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.438
  13. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.438
  14. ↑ 大森修『豊橋財界史』豊橋文化協会 1973年 p.225 - 226
  15. ↑ 小林橘川『藍川清成』藍川清成伝刊行会、1953年、p.266
  16. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.439
  17. ↑ 名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会 編『名古屋鉄道社史』1961年 p.243
  18. ↑ 豊橋鉄道創立50周年記念事業委員会編『豊橋鉄道50年史』豊橋鉄道、1974年
  19. ↑ 豊橋鉄道社史編纂委員会『豊橋鉄道100年史 1924-2024』2024年 p.132
  20. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.435
  21. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯出版 1965年 p.439-440
  22. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯出版 1965年 p.442
  23. ↑ 豊橋鉄道社史編纂委員会 編『豊橋鉄道100年史』 豊橋鉄道、2024年、p.35
  24. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.281
  25. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.281
  26. ↑ 中村隆義『鉄路風雪の百年―なるほど・ザ・名鉄』中部経済新聞社、1995年。p.133
  27. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.284
  28. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.284
  29. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.282
  30. ↑ 中村隆義『鉄路風雪の百年―なるほど・ザ・名鉄』中部経済新聞社、1995年。p.133-134
  31. ↑ 実業之世界社『実業の世界52(19)』1955年12月 p.89
  32. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.290
  33. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.290
  34. ↑ 名古屋鉄道労働組合組合史編纂委員会編『名鉄労組三十年史 上巻』名古屋鉄道労働組合 、1975年、p.283
  35. ↑ 神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』中部瓦斯 1965年 p.443
  36. ↑ 鳳来町教育委員会「田口鉄道史編」『鳳来町誌』鳳来町教育委員会、1996年 p.161
  37. ↑ 『したらの文化財 図録田口線と用具』1996年 p.6
  38. ↑ 豊橋鉄道社史編纂委員会『豊橋鉄道100年史 1924-2024』2024年 p.132
  39. ↑ 交通協力会『交通技術16(7)(186)』「パノラマ展望車とスピードアップ」1961年7月、p.265
  40. ↑ 鳳来町教育委員会「田口鉄道史編」『鳳来町誌』鳳来町教育委員会、1996年 p.168
  41. ↑ 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル 1968年11月号(No.216)』p.75
  42. ↑ 『したらの文化財 図録田口線と用具』1996年 p.6
  43. 1 2 豊橋鉄道100年史, pp. 144–147.
  44. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 2』1982年 p.246-247
  45. ↑ 東海日日新聞社『宮脇良一選集 4』1985年 pp.131
  46. ↑ 『官報』1927年10月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  47. 1 2 「豊橋鉄道 柳生橋支線をきょうから廃止」『交通新聞』交通協力会、1976年3月7日、1面。
  48. 1 2 “ICカード「manaca」のサービス開始日について”. 豊橋鉄道 (2010年12月21日). 2011年11月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年11月16日閲覧。
  49. ↑ 豊橋の路面電車(愛称「市電」)を活かしたまちづくり - 国土交通省大臣表彰 手づくり郷土賞 Part29(平成26年度)
  50. ↑ 豊橋鉄道株式会社 (2021年6月29日). 第148期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書 関係会社の状況 (Report).
  51. ↑ “豊橋鉄道グループ 100周年”. 豊橋鉄道株式会社. 2024年10月19日閲覧。
  52. ↑ “豊鉄グループ感謝祭の開催について”. 豊橋鉄道株式会社 (2024年10月18日). 2024年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月19日閲覧。
  53. ↑ 運賃・きっぷ|豊鉄渥美線【豊橋〜田原】 - 豊橋鉄道(2024年4月2日閲覧)
  54. ↑ 運賃・きっぷ|豊鉄市内線【豊橋市内】 - 豊橋鉄道(2024年4月2日閲覧)
  55. ↑ 鉄軌道事業の旅客運賃改定の実施について - 豊橋鉄道、2023年9月1日(2024年4月2日閲覧)
  56. ↑ “渥美線の障害者割引について”. 豊橋鉄道 (2024年3月11日). 2024年4月2日閲覧。
  57. ↑ “市内線の障害者割引について”. 豊橋鉄道 (2024年3月11日). 2024年4月2日閲覧。
  58. ↑ manaca公式サイト
  59. ↑ 名古屋鉄道 適時開示情報「連結子会社の会社分割に関するお知らせ」 (PDF)

参考文献

外部リンク


豊橋鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 14:41 UTC 版)

「愛知電気鉄道デハ3300形電車」の記事における「豊橋鉄道」の解説

豊橋鉄道では渥美線用として1967年からモ3350形・ク2340形が2両ずつの計4両投入され、足回りは国鉄飯田線旧型車クモハ14形の廃車部品に取り替えられた。モ3350形はモ1800形(初代)モ1801・1802(初代)、ク2340形は再電装化されモ1850形(初代)モ1851・1852と改番された。4個モーターでは自重が40tを超え、当時の線路の軸重制限に掛かるため、各車2個モーターとした(2年後名鉄3800系を譲受したモ1720形・モ1770形も同じ方式)。扉ステップが撤去され塗色変更と合わせて幾分軽快な外観となった。モ1800形-モ1850形の2両編成で組成され、パンタグラフは2両とも固定連結側に搭載された。1981年・1982年には3扉化改造と前面非貫通化が施されて、1997年の渥美線架線電圧1500V昇圧まで使用された。

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