ヤマコー
(山形交通 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/26 08:25 UTC 版)
![]()
ヤマコー本社
|
|
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 | ![]() 〒990-9567 山形県山形市鉄砲町二丁目13番18号 北緯38度14分15.0秒 東経140度19分55.7秒 / 北緯38.237500度 東経140.332139度座標: 北緯38度14分15.0秒 東経140度19分55.7秒 / 北緯38.237500度 東経140.332139度 |
設立 | 1943年10月1日 |
業種 | 不動産業 |
法人番号 | 2390001002260 |
事業内容 | 不動産事業 スポーツ施設業 物品販売業 遊園地業 他 |
代表者 | 代表取締役会長 平井康博 代表取締役社長 皆川清彦 |
資本金 | 1億円 (2025年3月31日現在)[1] |
発行済株式総数 | 210万株 (2025年3月31日現在)[1] |
売上高 | 連結: 115億3759万円 単独: 25億6411万8000円 (2025年3月期)[1] |
営業利益 | 連結: 3億5323万7000円 単独: 1億7837万4000円 (2025年3月期)[1] |
経常利益 | 連結: 10億3552万7000円 単独: 1億6002万7000円 (2025年3月期)[1] |
純利益 | 連結: 8億8271万円 単独:△1695万7000円 (2025年3月期)[1] |
純資産 | 連結: 92億4594万6000円 単独: 42億4311万9000円 (2025年3月31日現在)[1] |
総資産 | 連結: 217億9583万3000円 単独: 114億8329万9000円 (2025年3月31日現在)[1] |
従業員数 | 連結: 842人 単独: 116人 (2025年3月31日現在)[1] |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | 公認会計士 尾形吉則[1] |
主要株主 | 山交社員会 21.4% 山形放送 5.3% 山形トヨタ自動車 5.0% (2025年3月31日現在)[1] |
主要子会社 | #グループ企業参照 |
関係する人物 | 服部敬雄 |
外部リンク | https://www.yamako.co.jp/ |
株式会社ヤマコーは、山形県山形市に本社を置く、同県内陸部を地盤とするユトリアグループの中核企業である。旧称は山形交通。
概要
1943年(昭和18年)10月1日、戦時体制下の陸運統制によって、山形県の地方私鉄会社であった三山電気鉄道・尾花沢鉄道・高畠鉄道とバス会社であった山形交通自動車商会[2]・今村自動車[3]の5社が合併。さらに置賜、村山、最上の個人運輸事業者を吸収し、山形交通として発足した[4][5]。存続会社は三山電気鉄道。戦後1948年(昭和23年)には、山形市 - 上山町(現:上山市)間にトレーラーバスの運行を開始し、加えて、山形市 - 米沢市 - 長井町(現:長井市)では急行バスの運行も始めた[5]。
高度経済成長期には県内においても観光ルートの整備が進み、それに沿って白布温泉まで定期バスの運行を始めたほか、蔵王エコーラインが開通した際には刈田岳までバスの運行を開始した[6]。1972年(昭和47年)6月には、県都における路線バス運行の拠点として建設していたバスターミナルである山交ビルが山形駅前通り沿いに開業した[6]。しばらくは鉄道とバスを併営する運輸業者であったが、1974年(昭和49年)までに鉄道線は全廃した。また、モータリゼーションの進展によって県内陸地方全域に展開していた路線バス網も、乗客の減少に歯止めがかからず、多くの路線が廃止あるいは自治体バスへの転換が図られた。
1960年代後半から経営の多角化に乗り出し、1975年(昭和50年)4月には不二家との合弁で山交フッドサービス(現:不二家東北)を設立。さらに1984年(昭和59年)には、富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)からの呼びかけに応じ、山形OA機器(現:富士フイルムBI山形)を設立するなど[7]、多くの関連会社を設立した。また山形新聞・山形交通グループ(グループ連合会長服部敬雄)を形成し、グループ内の主軸の1社として県内において大きな影響力を行使していた[8]。
1993年(平成5年)にCIを導入の上で、バス車体に描かれているロゴマーク「ユトリア」を制定した。「ユトリア」とは「ユートピア」と「ゆとり」の造語で、ゆとり社会をひらくグループの方向性を表すとしている。以後、グループ企業群はユトリアグループと総称される。
1997年(平成9年)10月1日に山形交通が観光レジャー事業を強化することを目的に、グループ企業であった山交興業、山交観光、山交ランド、山交商事、東京バス観光などを合併し、同年12月、社名を山形交通からヤマコーに変更した[9][10]。またバス事業は山交バスとして分離し、独立採算を徹底させる方策を執った[10]。このほかパチンコホール会社の設立を一時模索したが、それを断念した上でアサヒビールなどからの出資を得てヤマコーアサヒビール園を設立した[11]。
2000年代に入り、蔵王温泉スキー場の利用客減少による索道事業等の不振、不況の長期化、さらに会計基準の変更に伴う退職給付債務の表面化や土地の含み損に対する減損会計の適用、加えて利益剰余金の減少によって貸借対照表も痛んだため、ヤマコーは時代の変遷に対応するため抜本的な経営改革に入った[8]。こうした中、天元台高原スキー場の運営会社である天元台の清算を決断した一方で[12]、上山市が資本参加撤退の意向を示した蔵王坊平高原のスキー場である蔵王坊平ライザワールドスキー場などを運営する第三セクター「蔵王エコーランド」の株式を、すべて同市から取得し、ヤマコーの関連会社であるヤマコーリゾートと合併させた[13]。また2000年(平成12年)にオープンした天童市のわくわくランド内の物販施設「ゆとりプラザ」の撤退など[8][注釈 1]、事業の選択と集中を断行した。
2011年(平成23年)4月には高齢化社会の到来を踏まえ、ヤマコーを母体として社会福祉法人ユトリア会を設立[14]。同会が山形市内で高齢者施設を運営しているほか、2017年4月、東根市に保育園と特別養護老人ホームを開設した[15]。
沿革
- 1943年(昭和18年)10月1日 - 三山電気鉄道を存続会社として、高畠鉄道・尾花沢鉄道・山形交通自動車商会・今村自動車を戦時統合により合併し、山形交通株式会社発足[4]。
- 1970年(昭和45年)9月10日 - 尾花沢線(旧尾花沢鉄道)を廃止。
- 1974年(昭和49年)11月18日 - 三山線(旧三山電気鉄道)・高畠線(旧高畠鉄道)を廃止、鉄道事業から撤退。
- 1993年(平成5年)10月 - ユトリアのCIロゴ導入。
- 1997年(平成9年)10月1日 - バス事業を山交バスに分社、企業グループ名を「ユトリアグループ」とし、株式会社ヤマコーに社名変更。
- 1999年(平成11年)4月 - リナワールド事業部を「リナワールド」、旅行事業部の一部を「山交観光」に再分社した上で子会社化[16]。
- 2004年(平成16年)4月 - 旅行事業部を山交観光に統合[16]。
- 2014年(平成26年)10月 - 索道事業を蔵王観光開発に承継[16]。
- 2024年(令和6年)4月 - リナワールドを吸収合併し、リナワールド事業部を再設立[17]。
事業内容
- 不動産事業部 - 主に県内におけるマンション・商業ビル・駐車場賃貸および不動産用地の開発、テナントの誘致。
- コミュニティ事業部 - 山交ビル(山形市・バスターミナル併設)の管理。
- 商事事業部 - 業務用食品等の卸・小売。
- リナワールド事業部 - 遊園地リナワールド(旧山交ランド)の運営。
グループ企業
- 連結子会社
- 山交バス - 乗合・貸切バス、自動車整備。
- 山交ハイヤー - タクシー、貸切バス。
- 蔵王観光開発 - 索道。
- 蔵王ゴルフ - 蔵王カントリークラブの運営。
- 山交観光 - 旅行代理店。
- 山交保険サービス - 保険代理業。
- 月山観光開発株式会社 - 索道・飲食・物販。月山スキー場の運営。
- 蔵王ライザワールド - 旅館・索道。蔵王坊平ライザワールドスキー場の運営。
- 富士フイルムBI山形 - 富士フイルムビジネスイノベーションの特約店。
- 持分法適用会社
- 関連団体
- 社会福祉法人ユトリア会
- ユトリアケアセンターかすみ - ヤマコーが所有していた山形駅前のテナントビルを取り壊し、高齢者向け施設を建設。
- ユトリアケアセンターなりさわ
- 特別養護老人ホームおおとみ
- おおとみ保育園
主なかつてのグループ企業
- 山交興業 - 1961年(昭和36年)設立。淵源は酒販、不動産業。山交ビル、ファーストフード店、ボウリング場の運営、さらにダイエーと提携を結びスーパーマーケットである「ヤマコーストア」を運営。元木店(山形市)、新庄店(新庄市)、尾花沢店(尾花沢市)、長井店(長井市)、高畠店(高畠町)を擁した[18]。後年にスーパー部門が分社され、山交ダイエーを経て、東北スーパーマーケットダイエーとなり清算。
→詳細は「過去に存在した北海道地区・東北地区のダイエーの店舗」を参照
- ヤマコーアサヒビール園 - 1997年8月1日、山形市鉄砲町の旧山交本社敷地内に山形店をオープン[19]。さらに蔵王店も開設したが、消費不況や狂牛病の影響から客足が遠のき、2002年(平成14年)春までに両店は閉園、会社は清算した[20]。山形店跡地にはベガスベガス鉄砲町店が立地。
- 山交ホーム - 住宅・不動産販売。清算[8]。
- 不二家東北 - 1975年(昭和50年)4月、不二家との合弁で山形・宮城・岩手・秋田・青森地区におけるエリアフランチャイザーである山交フッドサービスとして設立。不二家洋菓子の製造卸、山交ビル、ヤマコー長井店等において不二家レストランを出店。その後ユトリア不二家への商号変更を経て合弁解消、不二家100 %出資の子会社となり現社名となった。
関連項目
- 旧山形交通の鉄道路線
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k 株式会社ヤマコー『第102期(2024年4月1日 - 2025年3月31日)有価証券報告書』(レポート)2025年6月3日。
- ^ 「附録 株式會社設立 商號山形交通自動車」『官報 1927年04月25日』1927年4月25日、1頁。doi:10.11501/2956554 。昭和2年設立
- ^ 「附録 株式會社設立 商號今村自動車株式會社」『官報 1936年06月11日』1936年6月11日、26頁。doi:10.11501/2959312 。昭和11年設立
- ^ a b 「會社合併公告 山形交通株式會社」『官報 1943年06月15日』1943年6月15日、440頁。doi:10.11501/2961430 。
- ^ a b 『新版山形県大百科事典』p.704
- ^ a b 『山形県大百科事典』p.976
- ^ 「宇部興産・山形交通と提携 地域特約店を強化 富士ゼロックス 複写機拡販」『日経産業新聞』1984年9月4日
- ^ a b c d 「ニュース最前線 ユトリアグループ経営立て直し 課題山積 再び正念場」『読売新聞』山形版 2005年10月28日
- ^ 「赤字のバス部門 分離へ 観光レジャーに力 山形交通」『朝日新聞』山形版 1997年6月26日
- ^ a b 「山形交通10月に 観光関連の子会社吸収 不採算のバスも分離」『日経産業新聞』1997年7月23日
- ^ 「山形交通、バス事業分社化 レジャー観光関連、子会社、本体に吸収」『日本経済新聞』1997年4月9日
- ^ 「米沢 天元台スキー場 経営会社が撤退を表明 売り上げ減少で来年9月に」『読売新聞』山形版 2001年11月21日
- ^ 「エコーランド 株式を売却へ 上山市が第三セク撤退」『朝日新聞』山形版 2003年6月19日
- ^ “法人概要 ユトリア会”. 全国社会福祉法人経営者協議会. 2016年7月23日閲覧。
- ^ “ユトリア会、東根に保育所開設 ヤマコー(山形)が母体”. 山形新聞. (2016年2月24日) 2016年7月23日閲覧。
{{cite news}}
: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ) - ^ a b c “会社概要”. ヤマコー. 2016年7月23日閲覧。
- ^ 組織再編に関するご案内 - ヤマコー
- ^ 『新版山形県大百科事典』p.730
- ^ 「暑さに誘われビール園好評 山形」『朝日新聞』山形版 1997年8月4日
- ^ 「アサヒビール園山形店、年内閉店 消費低迷と狂牛病問題で」『読売新聞』山形版 2001年11月21日
参考文献
- 山形放送株式会社山形県大百科事典事務局編 『山形県大百科事典』 山形放送、 1983年。
- 山形放送株式会社新版山形県大百科事典発行本部事務局編 『新版山形県大百科事典』 山形放送、1993年。
外部リンク
山形交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 17:33 UTC 版)
「西武モハ101形電車」の記事における「山形交通」の解説
1958年(昭和33年)4月にモハ104(3代)が、同年8月にはクハ1114(3代)が譲渡され、それぞれ同社高畠線および尾花沢線に配属された。モハ104(3代)は高畠線モハ3となり、譲渡に際しては両運転台化、乗務員扉の増設(窓配置dD8Dd)、客用扉の自動扉化、客用扉下部へのステップ新設、客用扉の鋼製扉化等が施工されている。尾花沢線に配属されたクハ1114(3代)は客車化改造を施工しハフ3(3代)として導入された。客車化改造に伴う運転関連機器の撤去以外の改造項目は高畠線モハ3に準じているが、客用扉については手動式のままとされた。 1964年(昭和39年)8月にはクハ1111・1112(2代)が譲渡され、クハ1111については電動車化改造が施工されてモハ105・クハ11として同社三山線に配属された。譲渡に際しては前述クハ1111の電動車化のほか、制御方式の間接非自動制御(HL制御)化、両運転台化、乗務員扉の増設(窓配置dD4D4Dd)、前面窓および戸袋窓のHゴム固定窓化、客用扉の自動扉化・鋼製扉化等が施工されている。 モハ3は1974年(昭和49年)11月の高畠線全線廃止まで運用され、後に解体処分された。ハフ3は尾花沢線で主力車両として運用されたのち、1970年(昭和45年)9月の同路線廃止後は高畠線に転属したが、運用機会はなく倉庫代用として使用された末、高畠線全廃に伴ってモハ3と同様解体処分された。 モハ105は収容力の小ささが問題となって後年パンタグラフや一部の電装品を撤去して制御車代用となり、クハ11とともに主にラッシュ時の増結用車両として運用された。1974年(昭和49年)11月の三山線廃止後は他社への譲渡を意図して海味駅構内に1年余の間留置されていたが、結局譲渡されることなく2両とも解体処分された。
※この「山形交通」の解説は、「西武モハ101形電車」の解説の一部です。
「山形交通」を含む「西武モハ101形電車」の記事については、「西武モハ101形電車」の概要を参照ください。
- 山形交通のページへのリンク