戦後から高度経済成長期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:55 UTC 版)
「京成電鉄」の記事における「戦後から高度経済成長期まで」の解説
戦後、沿線の下総台地にあった陸軍施設が軍隊解散とともに民間施設に転用された。中でも千葉県下の津田沼には鉄道連隊が設置され、演習線が津田沼を起点に県内の松戸に延びていた。この演習線跡地に目を付けた京成電鉄は仮称「下総電鉄」を設立して、連合軍総司令部 (GHQ)・運輸省への払い下げ交渉を開始した。西武鉄道との激しい競合の末に1946年(昭和21年)3月に転用許可を、8月には路線免許を獲得。10月には正式に新京成電鉄を創立して新線開業を押し進めることとなった。 また、交通統制が緩んだこの時期に東京の電鉄各社は都心延伸の免許申請を行った。しかし、電鉄各社や営団、東京都との利害が輻輳し、京成でも1950年(昭和25年)8月に押上 - 有楽町間の免許申請を行ったものの、1957年(昭和32年)6月に運輸省の行政指導で「地下鉄網の建設・運営は『営団』『東京都』が担当」「各電鉄は地下鉄に相互乗り入れ運転」の方針が決定される。京成電鉄は京浜急行電鉄(京急)とともに東京都が担任する1号線(現・浅草線)に相互乗り入れすることとなったが、京成 - 京急では軌間の違い(京成1372mm / 京急1435mm)が最大の問題となった。 京成・京急・都の3者での協議の結果、軌間は1435mmに決定。そのため、京成電鉄では全線を11工程13工区に分けて改軌工事を実施、運転を継続したまま1959年(昭和34年)10月9日夜から12月1日朝までの50日間にわたって工事を行った。また、同年2月には押上駅の地下移設工事に着工し、翌1960年(昭和35年)11月30日に現在の新駅が営業開始、予定の12月1日より3日遅れの4日午後より1号線押上駅 - 浅草橋駅の開業によって初の郊外電車 - 地下鉄の相互乗り入れが行われることとなった。 戦災にあった千葉市は、戦後の都市復興計画により抜本的な区画整理が行われ、この時に国鉄・京成電鉄の路線変更および両者の千葉駅の移転も行われることとなった。京成千葉駅(現・千葉中央駅)が現在地に移転して仮開業したのは1958年(昭和33年)2月10日である。 1960年(昭和35年)前後には千葉・茨城県下の交通各社を系列下に収めるべく、1959年(昭和34年)5月に常総筑波鉄道、11月には鹿島参宮鉄道(以上2社は後の関東鉄道)、1960年(昭和35年)11月には銚子電気鉄道(千葉交通の傘下に)の各鉄道や周辺バス会社を傘下に収めていった。同じ頃には兼業部門の拡充を再開。流通部門では京成百貨店の開業(1963年)や京成ストアの設立、不動産部門ではオリエンタルランド(1960年)や京成不動産(1971年・不動産部の独立)、谷津遊園の拡充や京成ホテルの設立などが行われた。
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