戦後と余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 07:06 UTC 版)
1943年2月28日、CP-1の実験は終了して原子炉は一度解体され、シカゴ南西部のレッド・ゲート・ウッド(英語版)の森の中で新たに放射線防御設備を付け加えた上で再び組み立てられ、シカゴ・パイル2号(CP-2)と命名された。CP-2は同年3月20日に臨界に達した。この施設は後のアルゴンヌ国立研究所の前身となった。現在、(CP-1および)CP-2はこの地に埋め立てられ、同地はSite A/Plot M Disposal Siteと呼ばれている。 一方、戦争終了後もハンフォードでは原子炉の建設が進められ、最終的に九基のプルトニウム生産炉が建設された。これら生産炉はおおむね二十年程度使用されて順次閉鎖されたが、1997年9月23日に米国とロシアの間でプルトニウム生産炉協定(PPRA:Plutonium Production Reactor Agreement)が結ばれたことにより、ハンフォードで最後まで稼動していたN炉が1998年9月に閉鎖され、ハンフォードの半世紀に及ぶプルトニウム生産が終了した。 なお、CP-1他は最初期の原子力施設であり放射能に対する配慮が欠けていた。そのため、原子炉に近接するコロンビア川では長期間に渡る放射能汚染が深刻な問題となっている。 1965年2月18日、シカゴ・パイル1号はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。シカゴ・パイル1号の在ったシカゴ大学にはヘンリー・ムーア作の記念碑が建てられている。現在、シカゴ科学産業博物館及びロスアラモスのブラッドベリー科学博物館(英語版)にCP-1で使用された黒鉛のブロックの一部が展示されている。
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