シカゴ・パイル
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1940年6月にウラン諮問委員会はヴァネヴァー・ブッシュの「科学研究開発局」(Office of Scientific Research and Development, OSRD) のもとへ引き継がれることとなり、4万ドルの資金がコロンビア大学へと与えられた。連鎖反応維持の理論的見通しが立ち、新たな資金によって大学から正式に雇用されることになったシラードはフェルミに協力して高純度の黒鉛やウラニウムの調達に奔走した。しかし、政府が絡んだことによる行政手続き上の障害もあってこの調達は難しく、この時期、作業は遅々としてはかどらなくなっていた。 一方、連鎖反応を加速させ原子爆弾とするためにはウランの同位体のひとつであり分裂の容易なウラン235の割合を濃縮することが必要であった。イギリスに亡命していたオットー・フリッシュ (Otto Frisch) とルドルフ・パイエルスによってこれが可能であることが示され、原子爆弾が可能であるとしたイギリスのMAUD委員会の報告がアメリカ政府へもたらされると、シラードが訴えてきた連鎖反応の理論的可能性は原子爆弾という兵器の実現可能性としてようやくアメリカ政府の強い関心を引くものとなった。1942年6月、陸軍の管理下で原子爆弾実現のためのマンハッタン計画が開始された。 この頃にはすでに、天然ウランに豊富に含まれるウラン238が中性子吸収を行うことによって生成される新元素プルトニウムも爆弾として有望であると見られていた。シラードは、シカゴ大学のアーサー・コンプトンを長とする「冶金研究所」(Metallurgical Laboratory, Met Lab)へ移動していたフェルミの研究に参加し、そこでプルトニウム生産のための原子炉の作成に協力することとなった。フェルミらと共に連鎖反応研究の第一人者であり、野心を隠すタイプでなかったシラードは、ここで計画をコントロールできる高い地位を望んでいることを表明していたが、実際に与えられたのはフェルミの助手の地位でしかなかった。シカゴ市街にある大学構内の競技場に作られた世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」は1942年12月2日に臨界を記録した。シラードはフェルミに対し「この日は人類にとっての暗黒の日として記憶されるだろう」と述べている。その後、シラードはプルトニウムの生産における炉の冷却の問題などに関わった。
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