シカゴ・カブス時代
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「アンドレ・ドーソン」の記事における「シカゴ・カブス時代」の解説
1987年3月9日にシカゴ・カブスが好きな数字を入れられるよう金額部分を白紙にした契約書を用意し、スプリングトレーニング中に契約を結んだ。1986年オフのFAでは唯一に近い移籍例となったが、額は50万ドルでしかなく、カブスのレギュラーでは最低クラスの年俸での移籍であった。移籍先にカブスを選んだ理由の一つに、膝の故障を抱えているため天然芝でのプレイを希望していたことがあげられる。(エクスポズの本拠地オリンピック・スタジアムは人工芝だが、カブスの本拠地リグレー・フィールドは天然芝であった。) 同年は前年の20本塁打から49本塁打と倍増以上の強打を誇り、打点も137を記録。本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、チームが地区最下位にもかかわらずMVPを受賞した(当時カブスはナ・リーグ東地区所属)。 1989年にカブスはナ・リーグ東地区優勝を果たし、サンフランシスコ・ジャイアンツとプレーオフで戦った。しかしドーソンはこのシリーズで打率.105に終わり、チームもジャイアンツに1勝4敗で敗退。チーム史上44年ぶりのワールドシリーズ進出はならなかった。 1990年には通算300盗塁を記録して、300本塁打を1989年4月23日に達成していたため史上3人目となる「300-300クラブ」の一員となった。 1992年にFAとなった。
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シカゴ・カブス時代
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「ボビー・アダムズ」の記事における「シカゴ・カブス時代」の解説
1957年のシーズンを前にシカゴ・カブスに入団。この年は後半戦にMLBで出番を掴み、主に三塁を守って60試合に出場。成績は、打率.251・1本塁打・10打点だった。 1958年、代打での起用が増え、出場した62試合中先発出場は12試合だった。打撃では96打数27安打・打率.281と一定の結果を残し、守備でも三塁・二塁に加えて、11試合で一塁もこなした。 36歳で迎えた1959年のシーズンは、MLBでの試合出場は4月の3試合のみに終わり、5月12日にカブスを解雇された。
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シカゴ・カブス時代
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「デーブ・キングマン」の記事における「シカゴ・カブス時代」の解説
1978年は28本塁打、79打点だったが、打率は.266を記録。1979年は開幕から好調で、前半戦終了時に打率.290、29本塁打、69打点を記録し、3年ぶりにオールスターゲームに選出されるが出場機会はなかった。シーズン通算で打率.288、48本塁打、115打点、97得点、長打率.613を記録し、本塁打王のタイトルを獲得。1980年はオールスターゲームに2年連続で選出されるが、故障がちで81試合の出場に留まった。
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