戦後と安奉軽便線・新奉線編入とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦後と安奉軽便線・新奉線編入の意味・解説 

戦後と安奉軽便線・新奉線編入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:09 UTC 版)

野戦鉄道提理部」の記事における「戦後と安奉軽便線・新奉線編入」の解説

陸軍が既に占領していた双廟子から割譲駅である寛城子までの引き渡しは、1905年10月30日からロシア側と協議が行われ、段階的な引渡しが行われることとなった。この計画では双廟子-公主嶺間を第一期線として、さらに四平街分割して引き渡し、それが終わった後に公主嶺-寛城子間を第二期線として引き渡すことになった。 こうして1906年5月11日に双廟子-四平街間、5月31日四平街-公主嶺間、8月1日公主嶺-寛城子間が引き渡された。ただし寛城子に関しては、接続方法が明らかでなかったために日露間でもめ、やむなく仮条約で南にあった孟家屯駅までを引き渡すのみに留まった。この問題解決するのは提理部解散後のことであり、提理部が長春まで鉄道運行行った実績はない。 これにより、提理部の運行する鉄道満州中部までを縦貫する路線となった。またこれに先立つ1905年12月22日に、「満州善後条約」により清が鉄道権益ロシアから日本への移譲承認していたため、提理部の鉄道正式に日本権益認められることとなった。 しかし明確な権益運用方針政府示していなかったこともあり、鉄道運営直ちに別機関継承されることなく運営継承する会社設立されるまで暫定的に提理部が管理することになった戦後大規模な改修整備が行われることとなった奉天会戦以降ロシア軍鉄橋破壊線路枕木撤去行っていたため、それらを修理するための大規模工事が行われることとなったのである1906年9月6日本線昌図-双廟子間、10月1日本線・双廟子-公主嶺間、11月11日本線公主嶺-孟家屯間が開通し現状使用出来区間全て開通させた。 また戦争終結により輸送兵站輸送から一般輸送切り替わり、名称のみ「野戦鉄道」としたまま、普通鉄道として運営始まった実際に一般輸送引き渡し完了以前1905年10月21日より奉天以南軍事輸送合間を縫って開始され11月25日昌図まで拡張1906年1月4日軍事輸送の必要がなくなってからは一般輸送に切り替わっており、それを追認した形となった。 この一般輸送開始された頃、陸軍より臨時鉄道大隊建設した安東現在の丹東)-奉天間の安奉軽便線奉天-新民屯間の新奉線業務継承提案されることとなった安奉軽便線は、第一軍1904年5月1日鴨緑江会戦勝利鳳凰城(現在の鳳城)に進撃した際、手押式の軽便鉄道建設計画されたものを、将来朝満間の鉄道連結する必要があるとして、京義線建設行っていた「臨時鉄道大隊」を7月12日転任させ、蒸気動力軽便鉄道として建設開始したものである。11月3日には安東-鳳凰城間、さらに延伸工事進められ1905年2月11日には鳳凰城-下馬塘間を開業させた後、遼陽に向かう予定であったのを変更し奉天向けて工事開始した。 しかし7月15日になると臨時鉄道大隊新奉線工事転任建設業務は「臨時軍用鉄道監部」が継承した。そして12月15日には、下馬塘-奉天間を竣工し全通させている。奉天への接続は提理部と協議重ねた結果蘇家屯経由ではなく野戦鉄道撫順支線平面交叉行い、まっすぐ奉天入りすることになった。 この運営野戦鉄道提理部同じように、1906年4月1日から軍需品輸送合間を縫って建設した臨時軍用鉄道監部一般営業行っていたのであるが、同監部復員することになったため、既に鉄道事業者として経験積んでいた提理部に引き継ぐことになったのである新奉線もやはり戦中臨時鉄道大隊によって建設され軽便鉄道であった終点新民屯はイギリス資本により清の国鉄として敷設されていた「京奉鉄路」の終着駅で、この鉄道接続するための路線として建設されたものである。 この鉄道敷設され一帯には、東清鉄道から一定距離内に鉄道敷設しない旨の協定があったばかりでなく、日露戦争では清側が中立地帯したため、本来ならば鉄道建設どころか物資輸送も行うことができなかったが、現実には裏で物資輸送実施されており、日露ともにこの地域を重要戦略拠点として狙い続けていた。 そして天津方面からの物資輸送を行うことを決定した日本は、1905年2月28日新民屯を占領、これによりロシア側の京奉線軍事利用防止しその上で京奉鉄路経由で来た貨物奉天方面輸送する手押式の軽便鉄道が、現地中隊によって建設された。これにより4月11日には馬三家-老辺間、4月19日には奉天-馬三家間、4月29日には老辺-高力屯間、4月30日には高力屯-遼河左岸間が開業する。そして7月15日からは建設臨時鉄道大隊引き継ぎ9月には遼河左岸-新民屯間を開通させて全通させるとともに動力蒸気変更したのである1906年1月4日には、一般営業開始した。 こうして1906年2月20日新奉線が、9月1日安奉軽便線野戦鉄道提理部路線とされた。なお軌間安奉軽便線が762ミリ新奉線600ミリであったが、新奉線8月26日本線と同じ1067ミリ改軌されている。

※この「戦後と安奉軽便線・新奉線編入」の解説は、「野戦鉄道提理部」の解説の一部です。
「戦後と安奉軽便線・新奉線編入」を含む「野戦鉄道提理部」の記事については、「野戦鉄道提理部」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦後と安奉軽便線・新奉線編入」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦後と安奉軽便線・新奉線編入」の関連用語

戦後と安奉軽便線・新奉線編入のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦後と安奉軽便線・新奉線編入のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの野戦鉄道提理部 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS