戦後と観光史学の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:10 UTC 版)
「観光史学」も参照 近年でも観光史学の影響で、会津地方の人々が「一方的に『朝敵』『賊軍』扱いされた遺恨がある」軋轢が報じられる事が多いが、史実では一般の会津民からではなく、会津藩士(やその親族)による薩長への遺恨のみ存在していた。 前述の通り、徴税や藩士優遇の前時代的な会津藩の苛烈な統治に不満を持つ会津民が多く、会津藩士や親族らの敵である新政府軍に協力した者も多数出た。移住処分や処罰も会津藩士やその親族のみに行われた上に、実際に会津戦後に明治政府が会津藩時代の統治を残そうとした際、逆に藩民から反発運動が起きたなど、会津藩の統治への不満が根強く、反発を受けて直接行うことにした明治政府による統治では、不和は起きなかった。旧会津藩士族らによる薩長への遺恨が、時代がくだり観光史学が普及以降は、会津藩打倒に協力者が続出していた旧会津藩地域の非藩士の子孫らから、薩長藩出身者への遺恨があったことになってしまっている。 西南戦争では、旧会津藩士らやその親族が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らすために、かつて会津戦争で戦った明治政府軍に志願したといわれる。会津藩士・柴佐多蔵の五男である明治政府軍(後の大日本帝国陸軍)軍人の柴五郎などは、西郷や大久保利通など、薩摩出身の政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。 昭和61年(1986年)には長州藩の首府であった山口県萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市が『まだ120年しか経っていない』として拒絶した。一方、会津藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主であった庄内藩の首府だった山形県鶴岡市は、昭和44年(1969年)に、薩摩藩の首府・鹿児島県鹿児島市と兄弟都市盟約を締結している。 平成19年(2007年)、山口県第4区選出の衆議院議員・安倍晋三は、内閣総理大臣として会津若松市を訪問した際に「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った。 平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災において、会津若松市は萩市から義援金や福島第一原子力発電所事故避難者用の救援物資の提供を受け、会津若松市長・菅家一郎が萩市をお礼の意味で訪問したが、菅家は「和解とか仲直りという話ではない」と述べた。また、福島第一原子力発電所に於ける放射性物質の除染作業に、自衛隊で山口県駐屯の部隊が携わった際には、部隊長が福島県知事・佐藤雄平に直々に作業報告に出向いた。 平成24年(2012年)11月26日、萩市長・野村興児は、会津支援の一環として、会津若松市を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行った。 平成25年(2013年)に放送された、NHK大河ドラマ『八重の桜』では、幕末の会津藩が舞台となっており、会津戦争のシーンでは、実際の歴史ではほとんど参戦しなかったはずの長州藩が、鬼の如く会津に攻め入ったかのように描かれていた為、山口県民からは不評を買っていた。 平成28年(2016年)の報道によると、親から「長州の男との結婚だけは絶対に許さん」と言われ続けて育った子供が会津地方にはおり、国道49号についても「明治時代に制定された会津を通る国道が忌み数「49」にされたのは長州の嫌がらせだ」と、真顔で述べる住人がいる。しかし、実際に会津に国道が制定されたのは、明治時代ではなく昭和であり、国道49号が誕生したのも昭和38年(1963年)である。 平成30年(2018年)2月17日に放送された『新婚さんいらっしゃい!』では、福島県会津地方出身の男性が鹿児島県出身の女性と交際し恋愛結婚しようとしたものの、「夫が会津出身であること」を理由に、女性の父から結婚を認められず破局、30年以上経って父が他界した後に再会し、ようやく結婚することができたという夫婦が出演した。 このように結婚が反対されたという事例が見受けられるが、松平容保の五男・英夫が長州藩士で山田顕義の長女梅子と、山川浩、山川健次郎の妹・山川捨松が西郷隆盛の従弟で薩摩藩士・大山巌とそれぞれ結婚している事実は、余り知られていない。
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