戦後と晩年
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戦後は『のらくろ』の執筆を再開する一方、落語の執筆も再開。さらには日本人の笑いの研究に取り掛かる。漫画以外の書籍が増え、文化人的な存在へと変わっていく。1969年(昭和44年)に紫綬褒章を受章。同年、山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始めたことで知られる町田市玉川学園八丁目に移住。小田急線を挟んで、南北反対側の高丘の上に居を構えた遠藤周作と並んで、玉川学園という住宅地の代表的な文化人のひとりだった。 後半生はクリスチャンであった。長谷川町子が内弟子になった際、クリスチャンである彼女に夫妻で付き添って自宅の隣にあった教会に通ったことがきっかけで、長谷川が実家に戻った後も妻は教会に通い続けて洗礼を受け、戦後、水泡も洗礼を受けることになった。田河の死後に妻・潤子が完成させた『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(講談社)では、入信の理由は何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる。 1987年、勲四等旭日小綬章受章。 1989年(平成元年)12月12日、肝臓がんのため死去。90歳没。同年11月に日本橋高島屋で開催された「講談社創業80周年大博覧会」初日のテープカットが公の場に姿を現した最後となった。 1998年(平成10年)に水泡の遺族は、水泡が幼少期から青年期までを過ごした地域である江東区に遺品を寄贈した。江東区では、公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」1階を「田河水泡・のらくろ館」として、常設展示している。当地は生地の至近でもある。水泡に関する唯一の展示館。
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戦後と晩年
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1945年(昭和20年)の終戦後は、同年の『富士出現』を最後として大規模な作品の制作からは遠ざかった。やはり同年の作である『小堀遠州』は水墨画風の洒脱や軽妙を見せるもので、画家が新たな境地を切り開いたことを示す。これ以後はこうした小品が創作の中心となったが、その背景には、持病の高血圧症の悪化による体調不良もあった。1947年(昭和22年)に日本芸術院の会員、1950年(昭和25年)には京都市立美術大学の名誉教授、1954年(昭和29年)には京都市の名誉市民となり、同年には平等院鳳凰堂の壁画模写の指導にあたった。その翌年の1955年(昭和30年)9月9日、脳塞栓により自宅で死去、75歳だった。絶筆は『源氏物語挿図』。京都市美術館で市民葬が営まれ、死の翌年には京都と東京で遺作展が開催された。
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