戦後と晩年とは? わかりやすく解説

戦後と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:53 UTC 版)

田河水泡」の記事における「戦後と晩年」の解説

戦後『のらくろ』執筆再開する一方落語執筆再開さらには日本人笑いの研究取り掛かる漫画以外書籍増え文化人的な存在へと変わっていく。1969年昭和44年)に紫綬褒章受章同年山野買い取り、それを宅地分譲しながら教育始めたことで知られる町田市玉川学園八丁目移住小田急線挟んで南北反対側の高丘の上に居を構えた遠藤周作並んで玉川学園という住宅地代表的な文化人のひとりだった。 後半生クリスチャンであった長谷川町子内弟子になった際、クリスチャンである彼女に夫妻付き添って自宅の隣にあった教会通ったことがきっかけで、長谷川実家戻った後も妻は教会通い続けて洗礼を受け、戦後水泡洗礼を受けることになった。田河の死後に妻・潤子完成させた『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(講談社)では、入信理由何度も失敗してきた禁酒今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる1987年勲四等旭日小綬章受章1989年平成元年12月12日肝臓がんのため死去90歳没。同年11月日本橋高島屋開催された「講談社創業80周年博覧会初日テープカット公の場に姿を現し最後となった1998年平成10年)に水泡遺族は、水泡幼少期から青年期まで過ごした地域である江東区遺品寄贈した江東区では、公益財団法人江東区文化コミュニティ財団運営する森下文化センター1階を「田河水泡・のらくろ館」として、常設展示している。当地生地至近でもある。水泡に関する唯一の展示館

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戦後と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:48 UTC 版)

菊池契月」の記事における「戦後と晩年」の解説

1945年昭和20年)の終戦後は、同年の『富士出現』を最後として大規模な作品制作からは遠ざかった。やはり同年の作である『小堀遠州』は水墨画風の洒脱軽妙見せるもので、画家新たな境地切り開いたことを示す。これ以後はこうした小品創作中心となったが、その背景には、持病高血圧症悪化による体調不良もあった。1947年昭和22年)に日本芸術院会員1950年昭和25年)には京都市立美術大学名誉教授1954年昭和29年)には京都市名誉市民となり、同年には平等院鳳凰堂壁画模写指導あたった。その翌年1955年昭和30年9月9日脳塞栓により自宅死去75歳だった。絶筆は『源氏物語挿図』。京都市美術館市民葬が営まれ、死の翌年には京都東京遺作展開催された。

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