戦後における動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 01:12 UTC 版)
裁判長として多数の死刑判決を言い渡したフライスラーは、1945年2月3日に空襲で死亡した。その他の人民法廷関係者に対する戦後の扱いは、他分野と比較すると寛大だったと言われている。これは、1956年に、当時適用された法律をまもり、またはその行為の不当さを認識できなかった場合は罪に問わないという判決が出されたためである。 しかし、ローラント・フライスラーが担当した裁判に陪席した裁判官に対して罪を問う試みが継続され、ハンス=ヨアヒム・レーゼ(ドイツ語版)とパウル・ライマース(ドイツ語版)が起訴されている。レーゼは1960年代に起訴され、一審で殺人ほう助3件と殺人未遂ほう助4件によって懲役5年とされたが、控訴後の差し戻し裁判で無罪となり、再度の控訴審の最中に死亡したため判決が確定しなかった。ライマースは、1984年に殺人62件と殺人未遂35件で起訴された。この時は、フライスラーが長官に就任した1942年8月以降の人民法廷は通常の法廷ではなく「見せかけの法廷」と見るべきだと理由で起訴に踏み切ったものの、公判前にライマースが自殺。その後も捜査が継続されたが、もはや罪を問える被告が存在しないとして、1991年に停止された。 2件目の起訴に関連し、1985年1月25日に、ドイツ連邦議会は、人民法廷を「ナチスの恣意的な支配のためのテロ組織」、いわゆる「司法テロ」であったと評価し、その判決の法的効果をなくすと決議した。さらに、1998年8月25日に「刑法裁判におけるナチスによる不当な判決を廃止する法律」が公布され、人民法廷をはじめとする裁判所が、ナチス政権維持のために行った政治的、軍事的、人種的、宗教的、あるいは世界観を理由とする刑法の判決が、全て取り消された。人民法廷だけでなく、1933年3月から1945年2月の期間に公布された約60の法令を根拠とした不当な判決で失われた名誉が、この法律でようやく回復された。
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