戦後における都心部への延伸と輸送力強化
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「京阪本線」の記事における「戦後における都心部への延伸と輸送力強化」の解説
終戦直後の1945年から1968年まで奈良電気鉄道線(現在の近鉄京都線)との相互直通運転も行っていた。直通運転の解消は京阪側の1966年の蒲生信号所での追突事故を受けてのATS設置・近鉄京都線の架線電圧1500V昇圧・近鉄と京阪双方の列車本数の増加に丹波橋駅の規模では対応できなくなった。などが原因と言われている(「奈良電気鉄道#京阪電気鉄道との直通運転」も参照)。 また1952年に大和田駅から森ノ宮駅の間10.8kmの別線の特許を申請したり、1971年に表明した京都市伏見区三栖から分岐する「第2京阪線」の構想や、寝屋川信号所 - 交野駅(現・交野市駅)(約7km)の新線計画など、本線のバイパスとなる路線を立案したことがあったが、いずれも具体化せずに終わっている。 1960年代から70年代にかけ京阪電鉄の開業時からの悲願ともいえる天満橋駅 - 淀屋橋駅間の地下線での延長、天満橋駅 - 蒲生信号所間の高架化と複々線化、「くずはローズタウン」の開発に合わせた樟葉駅の移転、土居駅 - 寝屋川信号所間の高架複々線化事業着工などの大規模工事が次々と行われた。 架線電圧の1500V昇圧は1959年に一度検討されたが、「1975年で輸送量が1959年当時の輸送量の200パーセントとしても600V電圧で7両連結で対応できる」と昇圧を見送った経緯がある。ところが1963年の淀屋橋への延長工事竣工後、利用客の増加が予想をはるかに上回り、1965年に1959年当時の輸送量の2倍になり、1968年から1500Vへの昇圧の準備工事が始まり、1969年4月の重役会で正式に1500Vへの昇圧が決定した。当初は京都市内が地下化され路面電車との平面交差のなくなる1981年頃の実施が予定されていたが、1973年と1978年の2度のオイルショックの影響で工事費が暴騰したことと輸送量の伸びが鈍化したことで1982年頃へと先送りされ、さらに繰り下げられた。準備から15年の歳月と250億円もの費用をかけて1983年12月4日に1500Vへ昇圧を果たした。1500V化は当時の大手私鉄14社では最後である。 これは、前述の京都市電・大阪市電(いずれも架線電圧600V)との平面交差が4か所残っていたことに加えて、京津線80型の回生制動から発生する余剰電力を三条駅の変電所を通して京津線から京阪線へ両線の軌道分断後も再送電していたことなども影響している。 1978年に東福寺駅以南が軌道法に基づく軌道から当時の地方鉄道法に基づく地方鉄道に変更された。地下化工事が計画され翌1979年着工された東福寺駅 - 三条駅間は川端通の建設と京阪線地下化工事を一体化して進めるため、軌道のまま残されたが、地下化後の2013年12月20日許可で鉄道に変更されている。鴨川と琵琶湖疏水に挟まれた堤防上を走っていた同区間は1987年に地下化された。が同年7月15日集中豪雨のため四条駅北側で鴨川へ流れこむ白川の仮設堤防が決壊して川の水が地下線に流れ込み五条駅が浸水し地下区間が終日運休した。翌1988年5月に地下化に伴う付帯工事がすべて竣工。川端通が開通して、浸水事故の恐れはほぼ無くなった。 土居駅 - 寝屋川信号所間の高架複々線化工事が最終段階にかかっていた1980年2月20日の枚方市駅 - 御殿山駅間で置き石による電車脱線事故(京阪電気鉄道置石脱線事故)が発生し、以後地上区間では不法侵入防止の柵がほぼ全区間にわたって設けられた。この事故後、枚方市付近の高架化工事が本格化。枚方市駅は1993年に高架化工事は竣工した。つづいて寝屋川市駅の高架化計画が進められ、寝屋川市駅舎部分に仮線を引く用地が無く京阪で初めて直上高架方式が採用され、2002年に高架化工事が竣工した。これにより淀屋橋駅 - 寝屋川市駅間は寝屋川車庫への出入庫線を除き立体交差化された。 さらに淀駅が高架化され、現在も大阪府下で高架改良計画があるが、110km/h走行が可能となった区間は複々線の土居駅 - 野江駅間のA線(内側線)の速度制限なしの緩いカーブ1か所(土居駅 - 滝井駅間)を含む直線区間のみであり、100km/h以上で走行できる区間も、淀駅付近(105km/h制限)と、香里園駅 - 寝屋川市駅間の短い直線、門真市駅 - 大和田駅間のA線(半径600m級の100 - 105km/h制限カーブが連続する区間)、守口市駅構内付近大阪方(105km/h制限、ただし京都寄りにすぐ85km/h制限のカーブが存在する)などの比較的緩いカーブを含む区間のみでありきわめて少ない。大阪府内は開業時に併用軌道だったために軌道改良が行われ大半の区間で高速運転が可能となったが、北浜駅の京都側、枚方公園駅 - 枚方市駅間、橋本駅 - 木津川鉄橋間、龍谷大前深草駅 - 伏見稲荷駅間、東福寺駅 - 鳥羽街道駅間と半径200 - 220mの60km/h制限のカーブ区間が至る所に存在し、淀川堤防上の京都府道・大阪府道13号京都守口線(旧京阪国道)と並んで走る樟葉駅 - 橋本駅間は堤防に沿いに湾曲しカーブが随所に残っており、いまだ「京阪電気鉄道カーブ式会社」と揶揄されることもある。
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